2002-12-16(月) 似キ非ントリック短歌チック/W3Cなんてそもそも知らないし/闇黒日記への言及/Akimboさんのツッコミより [長年日記]

似キ非ントリック短歌チック

事務員でも用務員でも養護教諭でもない胡桃日誌の管理人です。もしかしたら校長や教頭かも知れません(笑)。高校って、僕も初めて知ったのですが、いろいろな立場の教職員がいらっしゃいます。びっくりしますよ。本当にびっくりする役職もあります。面白いところです。

新コンテンツを立ち上げました。以前は胡桃日誌短信であったものを、似非短歌 (似キ非ントリック短歌チック)にしました。なんか、本来の短歌を読むということに対して、僕自身、古典を読み解く知識が無いし、なおさら書く技術なんか無いし。それでも、日常にあふれている短歌を見て「すごいなー」、「こんなんできるんやなー」とか羨望の眼差しを送っていました。一年ほど前から、短歌詠みたいと周りの人間にもらしたり、書き留めてみたり、歌集を読んでみたりしました。でもなかなか思ったとおりのものは書けません。

最近、人生は短いのだなと感じることが多くなりました。時間と云うのはぼーっとしている間にすぐに過ぎ去ってしまいます。人生某かの事をするには短いが、何もしないのには長すぎると誰かが云ったじゃありませんか。とりあえず書いて公開しましょう、と思ったのです。でもあまり恥ずかしいので「似非」とか「エキセントリック」とか「チック」だとか恥ずかしい名前をつけてしまいました。言い訳です。まあ、お暇なら読んでやってください。

また、お勧めの歌集などあれば教えていただけたら幸いです。

短信 * 掲示板 * 日記じゃんくしょんへコメント

*

W3Cなんてそもそも知らないし

という言葉が一人歩きしているようで。言い訳させてもらうと、全く知らなかったわけじゃなくて、HTMLの規格を裏で操っている秘密結社(笑)というくらいの知識しかなかったということです。2chにスレが立ってたりして(レスが殆どないけど)ちょっと驚いています。

でも、冗談でなくて、サイトを作っている人のどれくらいがW3Cを知っているのでしょうか。そして、それを知らなくてもサイトが作れることがすばらしいことだし、重要なことだと思うのです。

一方で、W3Cに厳密に従おうとする立場もあっていいと思う。しかし、仮に須くW3Cに厳密に従うべし、と云われたとしたらちょっとかなわない。イスラム法を守って生活する立場(イスラム原理主義)はあっていいとは思うけど、イスラム法こそが正しく、イスラム信者(あるいは全世界の人間が)は須くイスラム法を遵守すべきと云っているイスラム原理主義過激派に似てはいないだろうか。イスラム法を知らぬものはイスラム信者ではないと。仏教に対する知識を知らなければ、仏教徒ではないと。僕は、仏教の知識を知らないけれど、仏式の葬儀(これはあまり歴史的には浅いそうだけど)や法事などの儀式を仏教者が快く行ってくれるのはすばらしいことだと思う。神道も同じ。僕は、神道なんて知らないけれど、きっと神主は快く神道での結婚式を行ってくれるだろう。そういう宗教社会はすばらしい社会です。

W3Cにのっとったサイトを作る努力をすること、そしてその思想はすばらしいことだと思います。一方で、「W3Cなんてそもそもしらないし」と云って己の無知に居直りながらサイトを作れることもまたすばらしいことだと思います。

そして、正しい−間違っている。良い−悪い。というのは極めて相対的な概念です。ある基準がないと成り立ちません。そういうある一定の基準を共有したときに初めて「正しい」や「良い」という概念が利用可能になるのです。W3Cや旧字旧仮名という概念を残念ながら僕は基準としていません。だから、正しい、とか、良い、とか云われても今ひとつぴんとこないのです。もちろん、「勉強不足だ」という批判はあるでしょう。しかしながら、勉強していない人間は口を開くべきではないという批判があれば、それは言論統制に他ならないでしょう。

闇黒日記への言及

さて、闇黒日記平成14年12月15日からの引用です。

實際に、HTMLの仕様書を見ればちやんと載つてゐる正式な規格ですから、文句を言はれる筋合ひではありません。

「国会で決まったから正しいのだ!」(バカボンのパパ談、失礼)ということに近いのでしょうか。別に文句を云うのは人の自由でしょう。

引用された事に被引用者が氣附かなかつたからといつて、問題はありません。フェアではない——そんな事は知りません。引用は、引用なんだから、いずしさんに氣附かれなくたつて、全然問題ないものです。こちらは、こちらの都合で引用しただけですから。 (中略) 私だつて、自分の事を蔭で批評されれば嫌ですが、公開の場に文章を晒してゐるのだから、どこで何を言はれようが、仕方のない事でせう。

自分の事を陰で批評されるのは嫌だが、自分は人のことを影で批評してかまわないということですね。web上に文章をさらした以上何処で何を云われようが仕方の無いことであるという事実はわかりますし、そんなことは心得ています。2chの書き込みに、「訴えてやる!」なんてことは云いません。しかし、ウェブ上に一つの個性をもつ人物が、の事実を盾に自分が誰に対して何を云っても構わないと云えるというのは、ちょっといかがなものかと思います。

不便だらうが何だらうが、より正確である事の方が大事です。出來るだけ正確な言ひ方をしておけば、あとで言ひ譯出來ますから。

後で言い訳が出来るから、わざわざ不便な記述をされているようです。それはともかくとして、此処で言われている正確である記述と正確でない記述がちょっとわかりません。例えば僕が、

不便だろうが何だろうが、より正確である事の方が大事です。出来るだけ正確な言い方をしておけば、あとで言い訳出来ますから。

と、書いたら、これが略字新かな遣いであればいいのですが、もしそうであれば、野嵜さんが書いた「正字正かな」の文章と僕の書いた文章の正確さはどれだけ違うのでしょうか。具体例が悪いでしょうか。

自分の理解しやすいほうに解釈されたら、やばくないですか。それつて、「誤解されてもOK」と云ふ事になりますよ。その「誤解」を論據に攻撃されたら、困つた事になり兼ねません。書き手が「それはあなたの誤解です」と言つても、讀者にして批判者の人から「俺はかう解釋したのだ」と言張られたら、「解釋して下さい」と言つた書き手はその批判を受容れざるを得ません。

どうも、野嵜さんは文章を攻撃されることを前提にお書きになっているようです。なんだか随分被害妄想じみていないでしょうか。そうでない文章も、ダブルミーニングを使う文章もあるでしょうに。

「自分の理解しやすいほうに解釈する」と云ったのは、人間にはそういう認知的な能力が備わってるという事実を云ったまでです。確かに誤解されるのは嫌です。でも、言葉をつくしたところで誤解される可能性はあります。それは「正字正かな」を使ったところで同じではないかと思います。誤解されたら、貴方の解釈は間違っていると云うだけです。別に、相手の誤解による批判を受容する義理などこちらにはありません。取り合うに値する批判だけ取り合うだけです。

文化と云ふものは現在進行形で、過去から現在まで途切れる事なく全部繋がつてゐる筈のものだと思つてゐます。ですから、既に日本に文化は殆どありません。昭和20年の時點で、最後の殘滓は日本語だけだつたと言つても良いくらゐでしたが、國語改革の所爲で日本語の連續も消滅してしまひました。ですから、現在の日本に、博物館の陳列物的な文化の遺産はあれど、文化自體は殆どありません。

僕自身、野嵜さんの記述を読んで、なんとなく文化というものについての認識がぐらつきつつあるので、ここはちょっと揚げ足取りせずに真摯に議論していただきたいです。野嵜さんが想定されてる「日本文化」とは「正字正かな」以外に何がある(あった)のでしょう。 まず、文化が「途切れる」ということの意味がわかりません。僕は文化が「変化する」ということならあり得ると思っています。

そして、仮に文化が途切れたとするならば、それは何時なのか教えて頂きたい。 また、過去から文化が途切れることなく続いている状態というのを僕は想像できません。過去から文化が途切れることなく続いているという例は何処にあるのでしょうか。アフリカかチベットか南アメリカの奥地でしょうか。僕は知りません。

また、今の日本の衣食住の文化は、全く持って過去と途切れてしまったとはどうも思えません。白米を食べる習慣は日本の文化でなくて中国から伝わった文化なのでしょうか。お漬物、味噌汁、煮物、緑茶などはどうでしょうか。日本で使われている陶磁器は日本の文化ではなくてコリアの文化なのでしょうか。襖や畳や障子は日本の文化ではないのでしょうか。能、歌舞伎、狂言、落語などは日本の文化ではないでしょうか。各地で行われている多くの祭事は文化ではないでしょうか。神社仏閣は文化ではないのでしょうか。日記文学は日本独特の文化ではないでしょうか。

「博物館の陳列物的な文化の遺産」など、それらに比べればちっぽけなものであるように思います。

以上は日本の文化として同意が得られそうなものだけ挙げました。何度も述べてるように、僕自身は文化を以上に述べた程度のものだとは思っていません。 と書いたものの、やっぱりまともには取り合ってはもらえないかなあ…。

Akimboさんのツッコミより

"cite="のところにURLがみえますね。これをブラウザのURL欄(IE6.0ならば「アドレス(D)」とラベルのある欄)にペーストし、「移動」ボタンを押せば、当日記の12月08日の記述にジャンプできます。「読者自身が判断できない」ということはまったくありません。もちろん、"cite="の部分にURLがあった場合、そこにジャンプをする機能があればありがたいわけで、それがないのは「チャチなブラウザ」である、ということです。

そのような複雑な操作をしなければ当該URLにジャンプできなければ、それは困ったことだと思います。たとえそれが「チャチなブラウザ」であるとしても、それを使っている人がうちの読者に多ければ、それなりのサービスを望まれているでしょうし、議論の相手にもそれなりのサービスを望みます。

一方で、「闇黒日記引用方式」がフェアではない、と云ったのは間違いだったとも思います。郷にいれば郷に従え、自分の方法を使うよう主張するのなら、相手の使う方法についても考えなければなりませんでした。コミュニティーにはそのコミュニティー独特の方法があると云うことを認識しておくべきでした。傲慢な態度だったと思います。

「台湾では旧字を使っている」と言うと、現行通用している文字を「蒙古」呼ばわりしていることになり、大変失礼になりませんか。

それは、微妙なところではないですかね。別に「旧字」呼ばわりすることで台湾の人の性質を貶めているわけではないですから。それはある意味、関西で使われている言葉を関西弁と呼ぶのが、関西人の人格を貶めていないことと同じような気がします。

一方、「旧字」を「正字」と呼ぶことが、なんだか「略字」が正しくないように見えるとすれば、それもそれで結構差別的な言葉遣いではないですか。そしたら「略字」を「正字」と呼んだって構わないはずです。何故僕達の使っている言葉遣いを「略字」呼ばわりするのだ!って怒っていいですか。

いずしさんは用語に対して鈍感であるため、漢字まじりでもなかなか意味のとりづらい文章をお書きになりますが

その言葉は随分と穏やかではないですね。実際そうであれば、大変残念です。どのような点から「用語に対して鈍感」だと推測されたのでしょう。後学の為ご教授願いたいです。

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本日のツッコミ(全42件) [ツッコミを入れる]
# su (2002-12-16(月) 18:51)

間違いをあげつらうのも気が引けるのですが、以下の点をご指摘いたします。<br><br>野嵜さんから同様のご指摘があることでしょうが、「須く」は「すべて」の意味ではありません。<br><br>「勉強していない人間は口を開くべきではないという批判があれば、それは言論統制に他ならないでしょう」とおっしゃるのはその通りですが、読者にも主張に対し反論・批判する権利があります。それを禁じるのはやはり言論統制です。多様な立場が共存している現実を認めた上で、ご意見を述べられてはいかがでしょうか。<br><br>iCabにまつわるツッコミは、ご確認いただければすぐにおわかりいただけますが、Akimbo(窪田顕範)さんではなく、私によるものです。したがいまして、問題があるかないかという点につきましては、私がお答えします。以前のどなたかのツッコミにもありましたが、ブラウザにはエラー訂正機能がありますので、ある程度は標準から逸脱しているHTMLも、表示する側で修正してくれます。しかし、これは、ブラウザにとって、日本語と外国語をごちゃまぜにして聞かされるようなものでしょう。大体の意味は正しいかもしれませんが、細かいところは判断を誤る可能性があります。実際、今まではたまたま表示できていただけなのではないでしょうか。<br><br>なお、これを書いております時点で、16日の日記にはHTMLの文法エラーがあります。ソースの155行目のblockquote開始タグが閉じられていないので、さすがに今回ばかりは手許のブラウザ3種とも正常に表示できません。やはり問題があるようです。

# su (2002-12-16(月) 18:59)

<br>「外国人の下手な日本語を聞かされるようなものでしょう」というべきでしたか。もっとも、日本語を上手に操る外国人も多いですが、彼らは日本語を勉強したはずですよね。何度も失敗を繰り返して、身に付けていったはずです。説教臭くなりますが、勉強し、また失敗を繰り返して、あることを身に付けていくのは、人生を豊かにすることだと思います。

# いずし (2002-12-16(月) 19:10)

su様。時間も遅いので取り急ぎお返事します。<br>「須く」って「必然的に」っていう意味ですよね。用法が間違っていたでしょうか。<br>「読者にも主張に対し反論・批判する権利があります。それを禁じるのはやはり言論統制です」との事ですが、僕の使っているtDiaryは極めてコメントがしやすいものとなっています。そして、僕は反論・批判を禁じてはいないことはご理解いただけますでしょうか。ただ、誹謗中傷があるとすればかなわんなあと思いますが。<br>記述のご指摘、有難うございました。慣れない引用方式を使ってしまったもので、書き損じてしまったようです。

# su (2002-12-16(月) 19:31)

いずし様。夜分遅く申し訳ありません。<br>「須く」ですが、おっしゃる通りです。「当然」という説明をしている辞書が多いのではないかと思います。今読み返してみましたところ、きちんと「べし」で受けられていますし、問題ないようです。私の勇み足でした。ご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした。<br><br>いずしさんが反論・批判を禁じていらっしゃらないことは了解しております。ただ、できるだけ、言及された資料もご覧いただければと思います。野嵜さんのサイトには国字改革に関する資料がありますので、それをお読みになれば、野嵜さんの基準を理解する手助けとなるのではないでしょうか。また、大吉さんのツッコミで示されたリンク先はHTMLの基準を考える上で理解を助けてくれるはずです。<br><br>誹謗中傷については難しいですね。ここでのツッコミには誹謗中傷の類いはないと思いますが、これはあくまで私がそう思うだけです。何気ない言葉が人を傷つけますから。

# Akimbo(窪田顕範) (2002-12-16(月) 23:47)

 まず、お返事ありがとうございます。当方の宿題がたまってしまったようですね。あと数日でこの日記はお休み(冬休み?)ということですが、サイト自体は残しておかれるのでしょうか。まあいずしさんにご理解いただきたいためにはじめたツッコミなので、何らかのかたちではお返事いたします。<br><br> ひとつだけお願いがあります。私はネット上ではAkimboと呼ばれることを好みます。ただし、自分が何者かを隠すつもりもないので、署名、特に親しくない方へのメールやサイトへの投稿には(窪田顕範)と自分の戸籍上の名前をつけております。<br><br> もちろんAkimboを特定できればよい、という考え方もあるでしょうが、実名忌避という日本の習慣もあり、いずしさんも日本の文化を愛していらっしゃるということなので、せめて、本当に私を特定する「顕範」ははずして、家の名である「窪田」、できれば"Akimbo"と呼んでいただくわけにはいかないでしょうか。<br><br> 前回はちゃんとAkimboと呼んでいただいていたと思いますが、なにか理由があって変更なさったのでしょうか。

# Akimbo(窪田顕範) (2002-12-17(火) 00:16)

 いずしさんに対するお返事の一環として、よそさまのサイト宛てに出し、取り上げていただいたメールで、今回のわたしの意見に関連するものがあるので、お読みいただければさいわいです(わたしは山本夏彦マニアなので、あちこちで同じ事ばかり言っております)。<br><br>【実名忌避について@一日一膳】<br> http://www.hat.hi-ho.ne.jp/funaoto/diary/wori05.html#d1215<br> 舩木さんのサイト「一日一膳( http://www.hat.hi-ho.ne.jp/funaoto/ )」の「けふのちやぶ臺」に取り上げていただいたものです。この中でわたしが「直名忌避」と書いているのは、「実名忌避」の誤りです。舩木さんごめんなさい。<br><br>【国語改革について@ガッキィファイター】<br> http://homepage2.nifty.com/higakitakashi/iimail/009.html<br> ジャーナリスト日垣隆さんのサイト「ガッキィファイター( http://homepage2.nifty.com/higakitakashi/index.html )の「いいメール」に取り上げていただいたものです。この中でわたしが「松嵜さん」と書いているのは、「野嵜さん」の誤りです。あの頃は約一年ほど、「ノザキさん」と言いながら「松嵜さん」とつづっていました。野嵜さんごめんなさい。

# shiro@Island Life (2002-12-17(火) 00:35)

「w3cに従うべきか否か」に関してはここでは議論が済まないと思うので置いておきますが、それとは別に、w3cとイスラム法や旧字旧かなを並置するとらえ方が面白いと思いました。多分、テクニカルなバックグラウンドを持つ人からは出て来ない発想だと思います。その「ずれ」が、この話題に関して議論が白熱する原因の一つかもしれません。<br>郵便番号や電話番号の付け方は決まっていますが、それに異を唱える人はあまりいませんね。(03)1234-5678という番号を(031)234-5678と書いて「これでも通じるんだし、これが正しいか間違いかは相対的な問題」という人がいたら、まあ確かにそれでも大抵は通じるので敢えて議論しようとも思いませんが、ちょっと変だと思いますよね。<br>運用上の違いはあるにせよ、テクニカルな背景を持つ人にとっては、W3Cの規格や勧告も郵便番号や電話番号の規格と同じなんですよ。「これを正式なものとする」と合意してはじめて様々な技術が実装可能になったわけで、正しい間違いは相対的な問題じゃないんですな。これら「人工的な規格」は、先に規格があり、それを実装することで現実化されきたという背景があります。一方、言語や法律は、どっちかというと現実が先にあり、それを明文化してゆく方向で作られるものかと。フィードバックがあるので単純に一方向ではありませんが、少なくともテクニカルな規格に慣れている目には両者はずいぶん違うもののように感じられます。<br>しかし、テクニカルな背景をあまり持たない人にとっては、WebもHTMLもまず現実があったのでしょう。でとりあえず現状で不自由なく使えているのに、実は「正しい規格」があるんだ、なんて言われてもピンと来ないのかなあ、と思います。<br>一方で、人工的な規格でも、最初に非公式な拡張や実装実験が行われて、それが広まったため追認するかたちで規格が制定されるという事例も多々あります。ですから技術者が考えているよりも案外、これら人工的な規格は自然言語や法律などに近いのかもしれません。

# いずし (2002-12-17(火) 02:36)

su様。「外国人の下手な日本語を聞かされるようなものでしょう」とのことですが、僕は、「関西弁を東京弁の人が聞かされるようなものでしょう」という程度の差だと思っています。<br>iCabについてはこちらのミスでした。そのブラウザではうちのサイトは見るに堪えない状態になっているでしょうか。そうであったら、僕も何某かの事を考える必要がありそうです。<br>野嵜さんのサイトには国字改革に関する資料があることはかねてから存じています。しかし、野嵜さんが誰のために国字改革に関する資料を書かれているのかちょっとわかりかねます。誰に宛てて書くかによって、自ずと書き方は決まると僕は考えています。それは、ある意味外国人に日本の文化のことを知って欲しくて、日本語のパンフレットを作っているようなもの。もっとも、まったく読めないというわけではないので、時間があればゆっくりと読みたいし、また読む価値のある文章だと思っています。<br>誹謗中傷の類があるかないかについてはコメントしません。しかし、僕自身こうやって皆さんの批判にお答えしているのですが、冷静さを欠いたり、被害妄想を感じたりということはあると申しておきましょう。

# トーコ (2002-12-17(火) 02:59)

こんにちは。個人的に、全文平仮名は読みづらかった者です。<br>が、「日本の文化」がどうの、や「旧字」・「正字」の問題については、いずしさんの<br><br>>文化が「途切れる」ということの意味がわかりません。<br>>・・・「旧字」を「正字」と呼ぶことが、なんだか「略字」が正しくないように見えるとすれば、それもそれで結構差別的な言葉遣いではないですか。<br><br>という疑問には共感しました。<br>考えてみたら、全文平仮名のいずしさんの文章こそ、日本固有の文化の形を表しているという理屈も成り立つのではないですか・・・?どうでしょう。『源氏物語』はきっと全文ほぼひらがなで書かれたでしょうから・・・<br><br>自分の経験から言って、古代から近世まで、日本の漢字かな混じり文で書かれた写本や版本を読む際は、『大漢和』のような辞典はあまり役に立たないことが多いです。そこに載っていない字があまりに多くて。日本には正倉院文書の頃から日本独自の「略字」や「異体字」があったのに、それを否定する旧字旧かな遣いの方々は、日本の文化とやらをどう考えていらっしゃるのでしょう。旧字にこだわる方が文化の断絶といえる行為じゃないのでしょうか?そもそも何らかの漢字を選んで「正字」と呼ぶその思想が、戦後の国字改革の思想と似通っているように思えますが・・・。あと「正かなづかい」というのも疑問です。<br><br>私も国語改革がいいものだとは思いませんし、趣味で旧字旧かなを使う人がいたっていいと思います。でもそれを「正」と呼ぶ点には納得がいきません。サイトを拝見しましたが「現代かなづかい」に対する反論はよくわかるのですが、一体「正字」「正かな」とは長い日本語の歴史の中でどういう点で「正」なのかよくわかりません。

# 大吉 (2002-12-17(火) 04:55)

ご存じかと思いますが、HTMLは文章の見栄えを指定するためのものではないですよね。文章のどこの部分が見出しで、どこがパラグラフで、どこが引用で…といった、文章の構造というか、文章全体の中でそれぞれがどういう役割を果たしているかを的確に示し、そうしてやることでその目印を頼りにコンピュータが・UAが目に見えるかたち(一般的なブラウザであれば)にしてくれる。仕様に従ってHTMLが書かれていれば、より普遍的にみなが見ることが出来るし、みなが利用することが出来る、人類共通の財産ともなるわけです。<br><br>>でも、冗談でなくて、サイトを作っている人のどれくらいがW3Cを知っているのでしょうか。そして、それを 知らなくてもサイトが作れることがすばらしいことだし、重要なことだと思うのです。<br><br>これは私は反対の考えです。<br>私は、ウェブサイトを作ろうとするみなが、W3Cの勧告や仕様にのっとったHTMLを最低限のこと(HTMLとはなんぞや?とかいうこと、基本的な要素とマークアップの仕方など)くらいは理解しておいたほうが良いんじゃないかと考えています。ほとんど義務的に。<br>例えば「ホームページがすぐに作れる!」というボタンをクリックすれば、HTML基礎講座(W3Cの仕様にのっとった正確な内容の)チュートリアルがあって、それをマスターした人じゃないと作れないとかそこまでいくと過激ですか。でもまあ最終的にはレンタル日記やオーサリングツール、CGIなんかでHTML文書を作るにしても、基本をきちんと知っていて何か問題あるでしょうか。<br><br>小中高・大学のIT教育や、社会人向けのIT講座でW3CのことやHTMLの仕様についてクールに教育するのも必要なことではないかなと思います。<br><br>ただし、HTMLを知って完璧にマスターしないとホームページ作っちゃ駄目だ、とか、実際にちまちまと「タグを手打ち」してHTMLを自分で書け!という主張をしているのととは違います。<br>作りながら学ぶことは多いですし、オーサリングツールに頼ってサイトを作るもよし、レンタル日記もよし。でも、何のためのHTMLかってのを知っていて、ただ手間を省くためにオーサリングツールとかで作ってるんだ、てことであってほしいなと。<br><br>さらにはオーサリングツールなどが標準の仕様にそった正確なHTML文書を作れるようになったら、コンテンツのなかみのことだけ意識してHTMLのことなんて考える必要なくなるかもしれないけれど…考える必要がないからと言って知らないでいいとは私は全く思わないですね。意識して気を遣わなくてすむということになるかな。それはまあ将来的な話だと思うので。<br><br>と言うと、いずしさんにはW3C宗教の原理主義みたいに言われてしまいそうですがそうじゃなくて、あれは技術仕様・規格であって実用品という感覚です。そのあたりはshiroさんとほぼ同様の考えです。<br>また、ねこめしにっき<br>http://www.remus.dti.ne.jp/~a-satomi/nikki/2002/12b.html#d17n01<br>の考えにも近いです。<br><br>suさんにも言及して頂けましたが、<br>「ごく簡単なHTMLの説明」<br>http://www.kanzaki.com/docs/htminfo.html<br>「はじめてのWebドキュメントづくり」<br>http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/www/<br><br>ほかにももちろん優れた内容の入門サイトがありますが、とりあえずこの2つにぜひいちど目を通して頂きたく思います。30分間HTML入門のコーナーもあります。<br>そのうえでもういちど、いずしさんなりの考えを述べて頂けたらと。あまりにも基本的な認識がHTMLについてずれているので、議論のしようがないです、というのが正直なところ。

# いずし (2002-12-17(火) 05:57)

shiroさん。お久しぶりです!ツッコミありがとうございます。<br>「w3cに従うべきか否か」については確かにここでは結論は出ないと思います。<br>テクニカルな背景を持っている・持っていないというのは、ディベロッパーとエンドユーザーという違いだと考えてよろしいでしょうか。<br>ディベロッパーは先ず規格ありきと考えるはずなので「原理主義」だと思います(この「原理主義」という言葉は、必ずしも悪い言葉ではなくて、中立的な意味です)。そして、その規格はもちろんエンドユーザーの為に作られます。それは理解しています。ディベロッパーの立場からは、正しい・正しくない、良い・悪いは相対的な概念でないこともまた理解しています。<br>ただ、僕はエンドユーザーとしての立場です。その立場からすると、規格は勝手に作られたもので、正しい・正しくない、良い・悪いにかかわらず、便利なように使えば良いという思いがあります。その「便利」ということが主観的で普遍性に欠けると云われればそれまでです。闇黒日記に述べられたように「不便だらうが何だらうが、より正確である事の方が大事です」という立場は、エンドユーザーとしては納得できません。規格はユーザーに便利であるべきです。もちろん、エンドユーザーはその規格に多くの恩恵を受けています。しかし、それが規格通りであっても、不便であれば規格が悪いと考えます。<br>したがって、規格に外れた、ディベロッパーの意図に反したような使い方がされることはありうることだし、それがあるコミュニティーのスタンダードになるということに何の不思議もないと思っています。<br>たとえばそれは、引用の方式がw3cの規格に準じたものであっても、大多数を占める(こう云ったらまた「シミン」的だ、と呼ばれそうだけど)IEユーザーにとってはリンク元が見えないため、そのw3cの規格は便利とは思えないのです。便利ではないので、正しくはないかも知れないけれど他の使い良い方法を考えます。そして、その方法が、繰り返しますが、あるコミュニティーのスタンダードになることに何の不思議もありません。<br>ディベロッパーは原理主義だと先に延べましたが、穏健な原理主義者が、使い良いが正しくない方法を用いているエンドユーザーをw3c基準に教化しようというのなら話はわかります。実際に初心者のためにやさしく解説してくれているサイトもあるでしょう。僕もそういうサイトに教えられました。しかし、過激な原理主義者に「おまえ達は間違っている、w3cの規格に準じている自分達は正しい、だからw3cにのっとっていない誤った独自のスタンダードを使っているものは認めないし、それにあわせる筋合いはない。便利であろうが無かろうが正しいことが良い事なのである」と云われてしまうのは、なんだか懐が小さいことなあと思ってしまうのです。

# いずし (2002-12-17(火) 06:13)

トーコ様。僕は正しい日本語というのがどういうものなのかわかりません。それは相対的(って、最近何度もこの言葉を使ってるなあ)僕の少ない知識で考えても、昔の日本は漢語がスタンダードだった時期があったし、万葉仮名の時期もあったはずです。誰かローマ字で非常に読みにくい本を書いていた人もいましたね。漢語こそが正しい日本語であるということと、旧字こそが正しい日本語であるということは同義だと思っています。<br>と、トーコさんの主張をなぞるには僕の知識は圧倒的に不足しているので、そうなのか〜<br>と思うばかりです。<br>それと、なぜ旧字旧かなを用いている人が「正字正かな」と呼ぶ事に拘るのかわかりません。そして、「正字正かな」を用いている人が、具体的に日本文化についてどうお考えなのか、お答え頂けないでいるのは残念です。

# いずし (2002-12-17(火) 06:51)

大吉様。HTMLが文書の構造を、CSSが文章の見栄えを規定するということは知っています。でも、なかなか厳密にわけるとなると難しく、ついHTMLのタグで見栄えを取り繕ったりしてしまいます。また、CSSの解釈はブラウザによって結構異なるように思うのは僕だけでしょうか。CSSを使えないブラウザの場合、HTMLで見栄えを規定しないと思い通りな見栄えにできないこともあるのではないでしょうか。そう云うような理由で、僕は「仕様に従ってHTMLが書かれていれば、より普遍的にみなが見ることが出来る」とは必ずしも思いません。そして、僕は文章は、内容もさることながら見栄えも同等に重要だと思っています。もちろん、厳密にHTMLとCSSを使い分ける事ができて、そのサイトがどのブラウザでも自分の思い通りに表示されるに越した事はないと思いますが。<br>W3Cの勧告や仕様、HTMLについての基礎的な知識があるに越した事はありません。知っていて損をする事ではないし、知っていたら得をすることだと思います。少なくとも現時点ではそうです。<br>そのことは、たとえばWindowsを使う人間は須らくdosコマンドを知っておくべきだ、とか、パソコンを使うものは須らく電子計算機の基本的な機能を知っておくべきだということに似ているように思います。知っておくに越した事はない、しかし知らないでも使える。<br>インターネットは、これから最も重要な社会のインフラになっていくでしょう。そして、それを用いる人が知識や技術の習得を習得することに対するの負荷もそれに伴って少なくなっていくでしょう。HTML は技術、テクノロジーだというのは事実です。しかし、W3Cの勧告や規格、HTMLの書式を知っている人間しかウェブを使えないというのであればそんな社会は御免こうむりたい。それは、なんとなく階級社会を思い起こさせます。誰であっても、知識が無くてもその技術・テクノロジーの恩恵を得る事ができる。僕はそれが理想の社会だと思っています。これは甘ちゃんなことでしょうか。<br>また、僕は「W3C宗教」などとは一言も云っていませんし(原理主義とは云いますが、宗教とは違います。もし、宗教だとしたら、僕はその熱心でない信者の一人でしょう)、そしてそれが作り出しているものが技術・仕様・規格であるという事も承知しています。しかし、実用品であるならば、根幹機能であろうが、ユーザー側に勝手に作られた付加価値機能であろうが、コミュニティーにおける正しくないスタンダードであろうが、あって良いものだと思っています。それを間違っているから直せと云われても、実用品は便利でないと意味がないですからとしか云いようがないです。人類共通の財産であるなどとは思っていません。いま、ここで使えるかどうかが実用品には問われているのではないでしょうか。そして、人類共通の財産と思っているものでも、いずれ規格は変って互換性が無くなることもないとも限りません。<br>だから、僕は「仕様に基づいているから問題ない」という言説には首を傾けざるを得ないのです。仕様は一体誰のための仕様なのでしょう。

# 大吉 (2002-12-17(火) 08:30)

いずしさんの#c11と#c13を拝読して気づきました。<br>どうも、サイトを作る人が「ディベロッパー」か「エンドユーザー」かという認識がいずしさんと私で違う。それでかなり結論が正反対に近くなっているようです。<br><br>>しかし、W3Cの 勧告や規格、HTMLの書式を知っている人間しかウェブを使えない<br><br>これ、いつのまにか「ウェブを使う」にすり替わっているのですが、私が言っていたことと違います。私は「ウェブサイトを作る」ひとたち、サイトを開設し、作成する人に対して、HTMLの最低限の知識と理解は必要だろうという話をしていました。ウェブを使う(見る・利用する)だけなのにHTMLだのなんだのの知識をいちいち知っていなくちゃいけないのは窮屈で私もごめん被りたいです。<br><br>つまり、私としては、サイトを作る人はあなたの言う「ディベロッパー」の側にいると考えているし、サイトを見るだけの読者・サイトを使う・利用するだけの方が「エンドユーザー」という認識でいるということなんです。<br><br>ですから、サイト作成者は「ディベロッパー」側(ディベロッパーのしっぽくらいの位置にいるかな)であるのですから、これもあなたの言葉を引用させていただくと<br><br>>ディベロッパーは先ず規格ありきと考えるはずなので「原理主義」だと思います(この「原理主義」という言葉は、必ずしも悪い言葉 ではなくて、中立的な意味です)。そして、その規格はもちろんエンドユーザーの為に作られます。それは理解しています。<br><br>そして<br>>ディベロッパーの立場からは、正しい・正しくない、良い・悪いは相対的な概念でないこともまた理解しています。<br><br>ということになり、つまり、ディベロッパーであるサイトを作っているにんげんは、HTMLの標準仕様に従う(もしくは、従おうと心がける、認識する)ことは、自然かつ当然なことなようにすら思えてしまいます、ということなんです。<br><br>しかしいずしさんは、サイトを作る人も見る人もエンドユーザーであるとお考えである。うーん。それにはどうも単純に同調できないのです。HTMLがどうだとかこうだとか考えなくてもホームページを気楽に作ればいいじゃないか、とか、コミュニティーで通じればって話であるのでしょうか。それは気分としてわかるんだけれど、でもやはり<br>サイト読者(見るだけで、サイトを作らない人)と、サイトを作る人とは、テクノロジーの使用の使用も関与の仕方も明らかに違うように、思うのですが。

# CRESCENT (2002-12-17(火) 11:04)

引用に関してですけど、W3Cの仕様に従って表記された野嵜さんに対していずしさんが良くご存知ないのに「失礼だ」、「それは妥当なことなのか?」とおっしゃったことに野嵜さんがお答えになっただけで、これは仕様を良くご存じなかったいずしさんに問題があっただけだと思うのですが。野嵜さんはW3Cのことを説明されましたが、いずしさんに対してW3Cの仕様を強要されておられませんし。いずしさんは「Web上での議論の仕方について一般的なスタンダードは無いとは思いますが、ハイパーリン クという特殊な機能に立脚した媒体上で議論するならば、相手先にリンクを張るというのが最低限の礼儀 だし、読者に対する責任だ」とおっしゃっていますが、「失礼だ」とおっしゃる前に野嵜さんの書き方が本当に「失礼」なものであるのかどうか調べることも「最低限の礼儀」だと思います。明文化された仕様、規格のある世界で、自分の気に食わない行為があったからといって、その行為をよく調べもせずに個人の思い入れで失礼なことを言う方がよっぽど失礼だと思います。例を出すまでもないと思いますが、たとえばお茶(茶道)の席でも何でもいいです。その文化にのっとった行いをされている方にその作法を知らない方が無知ゆえに失礼なことを言ってしまうのは単純に良くないことです。疑問に感じたら「失礼だ」ということを表明する前に周りの方に聞くか調べるかすればよいのではないですか? で、もしも、その方のされたことが失礼なことではないとわかったら、もしも自分が無知ゆえに先に失礼なことを言ってしまったのであれば、「知らずに失礼なことを言いました。ごめんなさい」でいいのではないですか? それを「他の読者の方」だとか「コミュニティ」だとか言い出すからおかしくなるのだと思います。別に無知でもなんでもいいです。居直ってもらっても構いません。ただ規格に準拠している人にその規格を知らないがゆえに失礼なことを言うのは間違っています。規格の不備を問いたいのであればそのように話せばいいだけです。無知を棚に上げたうえに調べもせずに「失礼」と決め付けるのは「失礼」な行為です。規格を知った上で、あるいは調べた上でそれでもなお「失礼」というのであれば、そのように書く(述べる)べきです。残念ながらいずしさんの最初の書き方はそのようなものではありませんでした。<br><br>「「国会で決まったから正しいのだ!」(バカボンのパパ談、失礼)ということに近 いのでしょうか。別に文句を云うのは人の自由でしょう」というのは如何なものでしょうか? 「文句を云う」のは「自由」かどうかはさておいて、この場合は規格(文化、ルール)どおりにされている方にいうのですから、「文句を言う」のはあまり良くないことではないでしょうか? 規格、規則、その類どおりに行動されている方に、「その行動」に「文句」を言うのはいただけません。それじゃぁ言われた方は気分が良くないです。言いがかりのようなものですから。逆にいずしさんがルールどおりに行ったある行動に対して「文句」を言われたとしたら、それは気分のいいものではないでしょう? たとえ「文句を云うのは自由だ」と言われても。違いますか?<br><br>あとひとつ。「しかし、ウェブ上に一つの個性を もつ人物が、の事実を盾に自分が誰に対して何を云っても構わないと云えるという のは、ちょっといかがなものかと思います」というお言葉ですが、紛らわしいのでお聞きしますが、これは野嵜さんのことではありませんよね? 野嵜さんは「どこで何を言 はれようが、仕方のない事」とはおっしゃってますが「誰に対して何を云っても構わない」とはおっしゃってませんものね。実際に野嵜さんの闇黒日記をいつも見させていただいておりますが、野嵜さんは「誰に対して何を云っても構わない」を実践されてはおられませんので。今回の件にしても、発端はいずしさんの書かれた「きゅうぶんごたいで か かれているさいとも よみにくいことこのうえなし。ゆーざーの あくせしびりてぃというのは まったくかんがえないのでしょうか」と文章に対して野嵜さんが「「これとおなじく」、つて、何が同じなんだよ笑ひ」と書かれたものだと認識しておりますが。もしそうでないのであれば私の誤解です。謝ります。ごめんなさい。で、誤解でなくてそうだとすれば、先ほどのいずしさんの書かれた文章は「正字正かなを使っている人は(みな等しく)ユーザーのアクセシビリティを考えていない(ように見える)」と「いずしさんは思っている」と受け取れます。少なくとも私はそう受け取りました。これは私の想像ですけど、それに対して正字正かなを使われている野嵜さんが反応したものだと思います。どちらかというと、「正字正かなをサイトで使う人はユーザーのアクセシビリティを考えていない」と決めつけているような印象与える文章を書かれることの方が「自分が誰に対して何を云っても構わない」と考えておられるように私は受け取ってしまいます。「ユーザーのアクセシビリティを考えていない」は誉め言葉ではありませんよね? どちらかというと否定的といいますか、「それは良くないことですよ」というニュアンスが伺えます。そういった良くないニュアンスのことをいきなり何の説明もなしに「これとおなじく」だけで言い切られてしまった「正字正かなをサイトで使用している人たち」はあまり気分のいいいものではなかったであろうと想像します。申し訳ありませんが、この文章には礼儀は見えず、「自分が誰に対して何を云っても構わない」という気持ちが見えてしまいます。<br><br>以上、長々と勝手なことを書いて申し訳ありません。失礼な言いようがありましたらお詫びします。ごめんなさい。

# 大吉 (2002-12-17(火) 12:07)

#c13について<br><br>「実用品」という言葉を私が使ってしまったからか、<br>>人類共通の財産であるなどとは思っていません。いま、ここで使えるかどうかが実 用品には問われているのではないでしょうか。そして、人類共通の財産と思っているものでも、いずれ規格は変って互換性が無くなる こともないとも限りません。<br><br>suさんがhttp://mas0721.tdiary.net/20021214.html#c28にすでに書いてくださっているんですが、<br>神崎さんの「何のためのHTML?」から引用します。長い引用で申し訳ありませんが、正確にわかっていただくためにある程度の量を。<br>http://www.kanzaki.com/docs/html/astool.html<br>>正しいHTMLを書くということ<br>このサイトのいろいろなページでは正しいHTMLの書き方を強調しています。HTMLを正しく書くのは、せっかくの情報を、できるだけ多くの利用者に読んでもらえるようにするためです。標準に準拠して正しく書かれたHTMLは、現在のさまざまなブラウザだけでなく、将来出現する新しいブラウザでもきちんと表示されます。不正確な、あるいは非標準的なHTMLは、たまたま手元のブラウザではうまく見えるかも知れませんが、ほかの環境や将来のブラウザでは全く意図に反した表示になる可能性があります(フィーリング英語は、たまたま通じることがあっても、長い目で見ると役に立たないのと同じです)。<br><br>また正しいHTMLは、コンピュータの力を利用した情報共有にとっても大切です。コンピュータは人間ほど融通が利かないので、文字サイズが大きいだけではそれが見出しかどうかを判別することはできません。HTMLがルールに則って書かれていれば、コンピュータは見出しや定義などの要素を的確に判断でき、処理の自動化が可能になります。<br><br>引用終わり。<br><br>WWWページをアーカイブして知的財産として永続的に残そうという試みは、民間だけでなくすでに政府レベルでもご承知の通り、はじまっています。<br><br>HTMLだけでなくWWWはそれ自体が人類の発明であり知的財産である、と思うんですけど(だってすごい発明ですよね)、それはとりあえず措いていて<br><br>私たち一般の人間が個人でサイトを作り何を発信しているかというと、ここなら文章、つまりコンテンツ。伝えたい物をWWWにハイパーテキストとしてアップしたいからHTMLでマークアップしている。<br>つまり、知的財産であるのはHTMLで伝えたいこと・コンテンツそのものなのですね。<br>その知的財産をハイパーテキストとしてより良く生かすために、たくさんのひとに利用してもらいやすくするためにより適切で正確なマークアップをしよう、HTMLを書こうって話だと思います。<br><br>そんなこと知ったこっちゃない。私のサイトは知的財産でも何でもない。世界の誰もに見てもらおうなんて思っちゃいない。<br>いずしさんはそうお考えでしょうか?それならそれでいずしさん個人でそうしていただきたい。あんまりちゃんと勉強してない、理解していない人にHTMLやWWWを鍋釜(ああ、実用品、の例として鍋や釜をおとしめてしまう物言いですが)みたいに言ってほしくないというのは心情として。私もこつこつ自分で学んでるだけなんですけど。<br><br>いずしさんと同じように考えてる人もいるかもしれない、というか、ある程度いらっしゃることは認めます。しかし誰もがそう考えてるわけではないのです。

# いずし (2002-12-17(火) 12:19)

大吉様。ディベロッパー・エンドユーザー云々は置いておいて、僕の主張は大吉様が仰ったように「HTMLがどうだとかこうだとか考えなくてもホームページを気楽に作ればいいじゃないか、とか、コミュニティーで通じれば」ということです。乱暴に云えば、かなり無茶な記述(W3C規格から外れた記述)をしても、ブラウザがそれを読んでくれれば、それでよいのではないかということです。そして、そういった記述に寛容なブラウザを作り上げたテクノロジーには感謝しています。W3Cの勧告や規格、HTMLの書式を重視し、それに沿ったサイト作りをされることは、もちろん正しいことなのでしょうし個人の自由ですが、それらの約束事を知らなければサイトを作れないのであれば、それではサイトを作ることが出来るのは、W3Cの厳格な規格に関する知識と技術があるごく一部の人間だけになってしまいます。さらに云えば、規格に則っているから文句を云われる筋合いはないというのはあまりに味気ない。僕はそれは困ったことだと思います。知識や技術などなくともサイトを作ることができるに越したことは無いでしょう。

# 大吉 (2002-12-17(火) 12:44)

サイトを作る人が「ディベロッパー」なのか「エンドユーザー」なのかの認識の違いは先に述べましたとおり大きい気がしますので、#c17で「置いてお」かれたのは残念です。そこから、いずしさんと、いずしさんに反論を投げかけている人たちとの意見の違いが出ているような気がしますので。<br><br>W3CやHTMLについて、全部学べ理解しろとは思いません。出来ません。私もしていません。でも、必要最低限の基礎的な部分を学ぶことは誰だって出来ます。基礎的な部分においてはそんなに難しいことではありませんよね。知識と技術がないなら、ちょっと学んで身につけてみればすむことだと思います。「知識や技術などなくともサイトを作ることができるに越したことは無いでしょう。」知識や特に技術を使いこなすことはできなくてもサイトを作れるに越したことはないと思いますが、<br>知識や技術が存在していることや、無知のままでサイトを作ることができるに超したことがないとは私は全く思いません。

# 大吉 (2002-12-17(火) 12:46)

×知識や技術が存在していることや→○知識や技術が存在していることを知らないで、無知のまま…<br><br>失礼しました。

# いずし (2002-12-17(火) 13:20)

CRESCENT様。「野嵜さんの書き方が本当に『失礼』」かどうかはW3Cの規格が決定付けるものなのでしょうか。僕は、行為や言動がそれを決定付けると思っています。「チャチなブラウザ」でリンク元が表示されない危険性を含んだW3Cの規格に則った書き方をすることをこそ、倫理的かどうか問いたいと思っています。そして、その「チャチなブラウザ」を使っているであろう読者はかなりの数存在することを承知の上で、規格に則っていれば「チャチなブラウザ」を使っている読者に対しては、何の説明(引用もとのURLです)もなく一方的に引用しても構わないのかと云うことを問うたのです。僕の考えていたスタンダードに則った記述がグローバルでなかったというのは確かに僕の無知でした。しかし、規格に則った記述であっても必ずしもグローバルであることの証拠にはなりません。規則に則っていることと、規則が妥当であるかということは慎重に考えなければなりません。もし、規則が妥当でない、あるいは有効に機能してない(今回のブラウザの件です)ならば、規則に則っていることはなんの意味もありません。そして、規格を遵守するとう一見正しそうに見える態度が、一方で彼にとって「言ひ譯」となり、彼の無責任な態度を作り上げています。それでは、「正式な規格ですから、文句を言はれる筋合ひではありません」ということにはなりません。<br><br>重ねて云えば、人間は四角四面に規格、規則に則って行動することが正しいか、倫理的なことなのか、考えてみる必要があります。<br><br>また、彼は、僕が「自分が書いている文章がどこか知らないところで論われているのはちょっといただけない」と彼が僕の文章を一方的に引用し論ったことに対して、「公開の場に文章を晒してゐるのだから、どこで何を言はれようが、仕方のない事でせう」と答えたのです。つまり、彼が僕の日記を引用したことに対する直接的な「言ひ譯」なのです。<br><br>そして、「野嵜さんは「誰に対して何を云っても構わない」を実践されてはおられません」というのは貴方と僕との解釈が別れます。「馬鹿左翼」、「馬鹿右翼」、「西部邁信者」等、結構云いたい放題だと思うのは気のせいでしょうか。CRESCENT様に随分失礼とされている僕ですら、多数反論を受けながら、未だどの方に対しても「正字正かな信者」とか「馬鹿W3C信者」とか云う記述はしていないし、実際そうとも思っていないのですが。それとも彼にとっては「馬鹿」とか「信者」という言葉は、ポジティブな意味合いなのでしょうか。もしくは、CRESCENT様は闇黒日誌をいつも見ていることによって「馬鹿」とか「信者」という言葉のもつネガティブな意味合いに鈍感になってしまわれたとしか思えません。どう考えても、彼は自分の主張のためなら他者を愚弄しても構わないという態度を実践されているような気がしてなりません。それでも彼が人並みの倫理感をお持ちだと主張されるのなら、申し訳ないですがCRESCENT様の倫理観も疑わざるを得ません。<br><br>「きゅうぶんごたいで か かれているさいとも よみにくいことこのうえなし。ゆーざーの あくせしびりてぃというのは まったくかんがえないのでしょうか」という僕の言葉は、ある意味奇襲だったと思います。そこは僕は反省すべき点かも知れません。<br>しかし、一方で、彼は自らの文章の読みづらさを肯定されています。そして、「不便だらうが何だらうが、より正確である事の方が大事です」と居直られています。彼が、「読みづらいなどということはない」と仰るならともかく、「よみにくい」と述べたことには何ら間違っている点があるとは思えません。確かに、自分の文章が「よみにくい」と評されたのなら確かに穏やかではありませんが、僕は最初の記述で、「きゅうぶんごたいで か かれているさいと」が読みにくいと云っているだけで、別段彼の日記について「よみにくい」と云った憶えは全くありません。というのは逃げ口上でしょうか。<br><br>「正字正かなをサイトで使う人はユーザーのアクセシビリティを考えていない」と思ったことは確かで、その根拠は僕には旧字体が読めなかったからです。それはひとえに勉強不足が原因なのでしょうが、読みたい文章が読めないのは非常に残念で、これはわざと読みにくいように、ある種読めない読者を寄せ付けないようにしているのだろうなと思ったからです。別段、彼に日記の文体を改めろとか、サイトを閉鎖しろとか好き勝手なことは云ってはいないつもりで、ただ利便性について言及しただけです。そして、彼も文章における利便性の重要な要素だと思われる「読みにくさ」については承知の上で書かれているようですから、あまり失礼にあたらないかと思います。気のせいでしょうか。

# いずし (2002-12-17(火) 13:42)

大吉様。僕がディベロッパーだとかエンドユーザーという言葉を出したのは、先のshiroさんの「テクニカルな背景を持つ人にとっては、W3Cの規格や勧告も郵便番号や電話番号の規格と同じなんですよ」という言葉に対応します。テクニカルな背景を持つ人間すなわちW3Cの規格を作り出す側の人間をディベロッパーとし、そのディベロッパーが作った規格を使う人間をエンドユーザーと呼びました。これは大吉様の定義とは異なると思います。エンドユーザー、すなわち「テクニカルな背景をあまり持たない人にとっては、WebもHTMLもまず現実があったのでしょう。でとりあえず現状で不自由なく使えているのに、実は『正しい規格』があるんだ、なんて言われてもピンと来ない」のです。ディベロッパーはまず規格ありきと考えます。しかし、エンドユーザーは規格なんて関係なく有用性のみに価値をおきます。そして、両者の思惑は時にすれ違います。<br><br>そして僕は「必要最低限の基礎的な部分を学ぶことは誰だって出来ます」というところを問いたい。確かにやれば出来るという側面はあることは承知しています。そして、必要最低限の基礎を学ぶことは、ウェブ作成者にとって倫理的に正しいこともまた認めます。僕が全く勉強してないか。確かに知識は非常に浅いもののすこしばかりは勉強しました。そして、勉強しなければサイトを持てなかったのも確かです(FrontPageからタグ打ちに変えたときは本当に苦労しました)。<br><br>しかしどうでしょうか。パソコンなんて誰でも使えますって、誰でも使えるでしょうか。使っている僕らからすれば簡単ですが、パソコンを使えないことでテクノストレスが溜まって、体に症状が出るなんていうのは、冗談の話ではありません。パソコンなんて触ったことのない爺ちゃん婆ちゃんに「必要最低限の基礎的な部分を学ぶことは誰だって出来ます」と果たして云えるでしょうか。もちろん、全ての爺ちゃん婆ちゃんが必ずしも学ぶことが出来ないとは云っていませんが。ウェブサイトの世界は、一部の知識や技術を持つものだけの世界ではなくて、出来ることなら、全ての爺ちゃん婆ちゃんが何の知識もなくてもサイトを作れるという世界はすばらしい世界ではないですか。僕の云っていることは飛躍しすぎているでしょうか?

# 大吉 (2002-12-17(火) 14:15)

反応どうもありがとうございます。<br>爺ちゃん婆ちゃん、は、私にはぞんざいな言い方に思えるので使いませんが、それに今時の高齢者の方は勉強しておられる方、多いですから。パソコンに全く触ったことがなく嫌っていた60代の私の両親はIT講座に通って今は使いこなせるまでになっているので、なんというか、「爺ちゃん婆ちゃん」を学べない人の代表格にはしたくない気持ちがすごく強いです。むしろ子供や忙しい大人のほうが学べないんじゃないかなと思うんですけどいかがでしょうか。<br>で、極論にきこえるかもしれないけれど、「必要最低限の基礎的なことを学ぶことが出来ない」人は、サイトを作って全世界に向かって自分の言説を言うべきじゃないと私は率直なところ、思います。アクセス制限を付けたり友人知人家族でひっそり使うクローズドなサイトは別に良いんだけれど。<br>「あなたのサイトの表示がおかしい」と苦情がきたら、無知なサイト作成者はどうしますか?知らぬが故に間違ったことや適切でないことをしていたらどうしますか?悪意ある攻撃をしかけられてきたらどう対処しますか?そういったことも、知識がないと、もしくは学んだり調べてたりする能力がないとしのげませんでしょう?<br><br>自分の足場をしっかりさせて自分を守ることにもなるんじゃないですか、基礎的な知識を学ぶことは。他人のためだけじゃなくて。

# d(l)4 (2002-12-17(火) 14:18)

>しかし、エンドユーザーは規格なんて関係なく有用性のみに価値をおきます。<br><br>そして、エンドユーザーは自らの首を締める結果に陥ったりします。でも、ユーザーだから、責任は無くて、そういう商品や道具を作った、ディベロッパーを責めるのです。そうして、ディベロッパーは、取説も読んでくれないユーザーを嘆くのです。<br><br>何の知識もないのに、どうやって素晴しい世界を作れるというのでしょうか。何処かの誰か、或いはディベロッパーが奮闘してくれるのを期待すればいいのでしょうか。いずし様自身が、立ち上がらなくてはならないのではないですか。まだまだ、ウェブサイトの世界は誰でも簡単にという世界ではありません。我々が、これから築いていかねばならないものなのです。素晴しい世界になることを願って。<br><br>それとも、今この現状が素晴しい世界だと、思っているのなら、それはとても淋しいことです。

# 義珍 (2002-12-17(火) 15:37)

いずしさん、トーコさん<br><br>話題が、日本語の記法の問題から、HTMLの方へ移行しているところで恐縮ですが、正字正かなという呼び方について。<br>どうも、いずしさんたちと、正字正かな派(というのも妙な表現ですが)の人たちの間には、「正しい」という言葉の認識にずいぶんずれがあるようです。私は、正字正かな派ではありませんが(現にこの文章も略字新かなだし)、「正字正かな」という言葉に、おっしゃるような問題はないと思います。「正しい」という言葉は、必ずしも「絶対的で、必ず従わなければいけないもの。他を否定するもの」という意味を表すわけではないので。この「正しい」という言葉については、話題の当事者である野嵜さんが参考になる記事を書いておられるので、下記のページをごらんください。<br><br>http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/www/Intention.html<br><br>私自身は、「日本語を使うならば、正字正かなで読み書きできなければならない」とか「略字新かなは絶対に用いるべきではない」などとは思いません。しかし、「文法の誤りや誤字脱字のある文章よりは、それらのない文章の方が正しい」というのと同じ意味合いで、正字正かなは「正しい」と思っています。<br>もちろん、正字正かなが正しいからといって、日本語の文章はすべて正字正かなで書かなければならない、というものでもありません。略字新かなに限らず、どんな記法で文章を書いても、それはその人の自由です(同様に、その文章を「記法が正しくない」と批判するのも、批判する側の自由ですが)。<br>ただ、学校などの公的な教育機関では、あくまで正しいことを教えるべきでしょう。その上で、正しい教育を受けた人間が、略字新かなで書くことを選んだのならば、それは構わないと思います。国語改革が問題なのは、学校教育や公文書の書式などを通して、略字新かなを国民に強制したことだと思います。<br><br>ついでにもうひとつ、「日本には正倉院文書の頃から日本独自の『略字』や『異体字』があったのに、それを否定する旧字旧かな遣いの方々は」とのことですが、そもそも正字正かな派の人たちは、それらを否定してはいないと思います。<br>表記ではなく、語義の問題にたとえればわかりやすいでしょう。たとえば、現代日本語の文法に照らし合わせて「『源氏物語』の文法は間違っている!」なんていう人はいません。しかし、現代日本において『源氏物語』に出てくるような言葉を書いたり話したりするのも、また無意味です。同様に、正字正かな派の人たちは、異体字を使用していることを理由に古典を批判することはないでしょうが、古典で用いられている異体字を現代日本語の表記に取り入れようとする人に対しては、批判を辞さないでしょう。(もちろんトーコさんも、そんなことをしようというつもりはないでしょうが)<br><br><br>akimboさん<br><br>それはそれとして、私は、「旧字旧かな」という呼び方を用いるのはやむをえないと思います。「正字正かなで書かれた口語体の文章」を「旧(?)文語体」と呼んだり、「先天的な染色体異常の一種」を「蒙古人のようになってしまう病気」とみなしたりするのは、明らかな誤りです。しかし、正字正かなを旧字旧かなというのは、(旧くからある表記、という意味では)誤りとは言い切れないので。それに、「旧い」=「よくない」というものでもありませんし。

# Akimbo(窪田顕範) (2002-12-17(火) 15:39)

 いずしさん、変更の対応、ありがとうございました。<br><br> ついでに2002-12-16のタイトルにある「窪田顕範」も"Akimbo"になおしていただければさいわいです。今のままでは画竜点睛を缺きます。<br><br> ところで、わたしの名前を"Akimbo"じゃなくて「窪田顕範」と書きなおしたのは、「ぼうあんこくにっき」同様、やはりなにかの不快感の表明ですか? 「実名忌避をやぶるというのは、いずしさんらしい、実に説得力のある方法だなあ」と、いずしさんの筆力に感嘆してしまったのですが…。

# Akimbo(窪田顕範) (2002-12-17(火) 16:13)

 こんにちは。こんなところ(って、いずしさんごめんなさい)でお言葉を交わすことになるとは思いませんでした。光栄ですが、「言葉言葉言葉掲示板」でもよろしくお願いいたします。<br> おっしゃるとおり、「旧い」=「よくない」というものでもありません。トーコさんもお書きになっているように、実は略字も旧くからあるものです。<br> しかし、それならば、略字も「旧字」とよばなければ話が通じません。<br> つまり、正字のみを「旧字」と呼ぶことにしたのはやはり「正字は過去のものだ」という、イデオロギー的な思惑があってのことです。それが浸透した結果、「略字だって旧字と同様旧くからある文字だ」という、考えてみるとおかしな主張がまかり通っているわけです。<br> 一方、正字(手元の漢和辞典を見ると、「本字」とも書いてあります)と略字というのは、きれいな対応関係にある言葉です。いえ、異論もありましょうが、まだ「新字と旧字」よりましだと考えています。

# CRESCENT (2002-12-17(火) 16:41)

いずしさん。えーっと、理解していただけないことだけがよくわかりました。まず最初の段落ですけど、いずしさんが野嵜さんに最初に言われたのは「グローバルであるかどうか」、「手段が倫理的であるかどうか」ではなくて「引用元を明記していない」ではありませんでしたか?W3Cにのっとっているかどうかはあとで気が付かれたことではありませんか?論点がずれています。そして私が書いたことはまさしくその点です。「引用元が明記されていない」と誤解して「失礼だ」と言った→野嵜さんがそれに対して説明された、ということと、W3Cの規格がグローバルでないか?倫理的でないか?は別問題です。それがグローバルであると思えても思えなくても、倫理的に見えても見えなくても野嵜さんは規格にのっとった表記をされていましたのでそれに対して「引用元が明記されていない→失礼だ」というのは言い過ぎです。いずしさんのおっしゃるように「規則に則っていることと、規則が妥当であるかということは慎重に考えなければなりません」というのはもっともなことです。そうであるからこそ、検討されて改定されるのだと思っています。ただ「もし、規則が妥当でない、あるいは有効に機能してない(今回のブラウザの件です)ならば、規則に則っていることはなんの意味もありません」というのは、この件に関してはそういう「意見もあるだろう」というレベルのものです。W3Cは適当に集まって自分達の趣味で好きなことを決めて押し付けているわけではありません。Microsoftがそれを実装できないのであれば、「それはこうこういう理由で良くないのでこうしましょう」と働きかけるべきです。あるいは、「それは良くない」と思っている人たちがW3Cにちゃんと理由を説明して意見を出すべきです。あるいは、W3Cの規格が良いと感じたならば、自分のサイト上で「こういう場合はこういうふうに表記するのですね。知らなかったです。みなさんもこうやっていきませんか?」と言ってもいいし、MicrosoftにW3Cの規格に準拠した製品を出すように働きかけてもいいでしょう。あるいは、自分のやり方を変えずに様子を見てもいいと思います。少なくとも規格通りに表記している方に対して失礼な言い方をしていいわけではありません。「そして、規格を遵守するとう一見正しそうに見える態度が、一方で彼にとって「言ひ譯」となり」ですけど、私は規格を遵守しているのは正しい態度だと思いますよ。野嵜さんはW3Cの規格を尊重していますので、それを遵守する姿勢は彼にとって正しいです。曖昧さがありませんし、誰かを誤解させることがありません。「好み」とか「明文化された規則のない集団で通用するやり方」などという曖昧さがありません。誤解しないで欲しいのはそれ以外のやり方が「間違っている」とは言ってませんので。「彼の態度は正しい」と言っているだけです。「彼の無責任な態度を作り上げています」にも承服しかねます。彼は無責任な態度など取っていません。すべてにおいて、ちゃんと根拠になるものを提示して意見を述べています。それも「個人の感情」とか「好み」とか「正確なサンプリングも示さずに言う「それが大多数の意見だ」」などという曖昧な根拠ではありません。「「正式な規格ですから、文句を言はれる筋合ひではありません」ということにはなりません」という点も理解していただけなかったようですが、「文句」を言われる筋合いはありませんというのは至極まっとうな意見ですよ。正式な規格にのっとって取った行為に対して文句を言われたのではたまったものではありませんよ。そう思いませんか?確かに世の中には文句を言いたくなる「正式な規格」があるかもしれませんが、それにのっとった行為をして「文句」を言われるのはお門違いと言いますか、そんな筋合いはありません。ましてその規格が良いものだと思っている人にはなおさらでしょう?それは「言い訳」でも「無責任な態度」でもありません。自分が何か「良い」と思っている規格なり文化なりルールなりに対していずしさんがそれにのっとったことをして誰かに文句を言われたらそう思いませんか?それは「言い訳」であったり「無責任な態度」なのですか?もしも自分がその規格なり文化なりルールなりに疑問を感じているのであれば改正に対して働きかけるでしょうし、あるいはそれを使わず(やらず)にもっと自分がいいと思う方法を採るでしょう?私の言っていることが理解していただけますでしょうか?<br>「重ねて云えば、人間は四角四面に規格、規則に則って行動することが正しいか、倫理的なことなのか、考えてみる必要があります」というのは結構ですけど、全然ここでは関係のないことのように思います。「重ねて云えば、人間は自分に適さないからと言って規格、規則を無視して行動することが正しいか、倫理的なことなのか、考えてみる必要があります」って言い出すと論点がどんどん拡散していきますよ。こういう議論にはまったく首を突っ込む気がありませんので、前回私は「引用元を表記しているかしないか調べずに「失礼だ」と言ったこと」についてお話ししたのですが。<br><br>次にこのあたりは私は何も言ってませんので単なる疑問ですけど、「彼が僕の日記を引用したことに対する直接的な「言ひ譯」なのです」って、引用したことに「言い訳」って必要なのですか?彼の引用の仕方についても「言い訳」が必要なものとは思えませんでした。引用元を明記してあれば引用してもいいというのはそれこそネットの世界でのグローバルな意見ではなかったのですね。すみません、知りませんでした。<br><br>それから次のセンテンスですけど「「馬鹿左翼」、「馬鹿右翼」、「西部邁信者」等、結構云いたい放題だと思うのは気のせい」ではありません、、、と思いますよ。少なくとも野嵜さんはそういう語句を書いておられますから。その語句を私は見ていますし、いずしさんも見ておられるでしょうから、絶対に「気のせい」ではないと思います。私の書いた「野嵜さんは「誰に対して何を云っても構わない」を実践されてはおられません」という文章が曖昧でした。すみません。あのぉ、私は「彼が人並みの倫理感をお持ちだと主張されるのなら」って、そんなこと主張した覚えはまったくありませんし、何をどう思われたかはわかりませんがそういう主張をする予定もつもりもありません。私は彼のことはサイトを通してしか存じ上げませんし、彼がどのような倫理観をお持ちかはまったく存じ上げません。ただ「いかがなものか?」と言われるような「誰に対して何を云っても構わない」を実践されているように思ったことがありませんでしたので書いただけです。今後そのようなことを彼が書かれるのか、あるいは私の見えないところ(たとえばあのサイト以外)でどのようなことをおっしゃっているのか私は知りません。誤解されていらっしゃるのかもしれませんが、私は彼の友人でも知人でも親戚でも身内のものでもありません。彼の倫理観なんてまったく存じ上げておりません。そのようなものを主張などいたしません。どうして私がそんなことをしなきゃならないのですか?あの文章は闇黒日記を見ての私の「感想」ですので、適当ではありませんでしたね。反省してます。ごめんなさい。彼が「馬鹿」とか「信者」とかを使用する場合は、ちゃんとそう思う理由を個人の主観のみでなくいろいろ資料を出して述べておられると私は認識しておりましたので。それは別段「批評家」と呼ばれるわけでもない方々でも同様に「馬鹿」だの「信者」だの使われますし、小説などの書評にしてもそうですし、映画でも何でも、どこのサイトでも誰かに対して「馬鹿」だの「アホ」だの「信者」だのってよく目にしますが、なんの理由も根拠も示さずにただただ己の好き嫌いや主観のみでそのような言葉を使っている方は論外ですが、ちゃんと、それが私にとって受け入れられない理由や根拠、、、これは私の主観の問題で(たとえばその人のファンだとか)その理由や根拠がいい加減なものであるかどうかではなく、、、であってもそれを示されている方がそのような言葉を使ったからといって、それほど倫理観がどうのなどと思ったことはありません。言葉遣いが良くない(適当でない)ことはあるかもしれませんが。私も人の迷惑を省みないマナー違反の若者(たとえば成人式で暴れた少年たちなど)を見た時に「馬鹿ガキ」って言います。それで倫理観を疑われましたら、、、不徳の致すところでございますね。ですが、私は「誰に対して何を云っても構わない」とは思っておりません。<br><br>さて、次のセンテンスですが「「不便だらうが何だらうが、より正確である事の方が大事です」と居直られています」って彼は「居直って」いるのですか?本人が「居直ってます」って言ってましたっけ?何に重点を置くかはその人の考えですから、一概にどれが正しいとは言えないと思います。たとえば個人ユースの使い捨てのようなプログラムであればそのソースの書き方や読みやすさよりも「速く動く」とか「答えが出る」ということに重点が置かれても良いでしょうし、製品ベースのプログラムであれば「速さ」よりも「ソースの正確さ」が重視されます。サイトの性格や作者の意図などもあるでしょうから、重視する点は作者の考え方次第ですし、「居直り」であるかどうかは決めつけることはできません。「「よみにくい」と述べたことには何ら間違っている点があるとは思えません」って、私そんなこと書きましたっけ?と言いますか、書いていませんので、そういうふうに受け取られるような書き方でしたっけ?野嵜さんは「よみにくい」に関しては「ひらがなで書かれたもの」と「これとおなじく」と言われたことに対して反応されています。「よみにくい」と言われたことに反応されているわけではありません。「きゅうぶんごたいで か かれているさいと」という点で彼が反応したのも別に問題はないでしょう?それからこのセンテンス最後の「僕は最初の記述で、「きゅうぶんごたいで か かれているさいと」が読みにくいと云っているだけで、別段彼の日記について「よみにくい」と云った憶えは全くありません」というのは、、、こういうことを書かれると困ってしまいます。どのように判断すればいいのですか?例を挙げて説明しないと理解していただけないような問題なのですか?<br><br>最後のセンテンスですけど、、、<br>「自分が読みたいサイトで、でも読めなくて(読みづらくて)残念だな」と思った場合、その気持ちの表し方としていずしさんは「(この人たちは)ユーザーのことは考えていないわけですね」と言うわけですね。了解しました。「残念だ」という気持ちの表し方が私とは違ったので私には理解できなかっただけのようです。<br><br>基本的に考え方が非常に異なることが理解できました。今までいずしさんの書かれたものを読んでもこれほどまでの違いは意識したことがありませんでしたが、「残念」という気持ちの表し方の違いに気がついたこと、「それでも彼が人並みの倫理感をお持ちだと主張されるのなら、申し訳ないですがCRESCENT様の倫理観も疑わざるを得ません」と、してもいないしまったくするはずもない主張で倫理観を疑われたりするのもあまり気持ちのいいものではありませんので、、、といいますか、どこからそんな言葉が出てくるのか理解できませんので、これ以上は何も言わないことにします。2回に渡って差し出がましい意見を書きましたことお許し下さい。できるだけ誤解のないように書いたつもりでしたが、言葉足らずだったようです。申し訳ありません。

# Akimbo(窪田顕範) (2002-12-17(火) 16:45)

 しかし、今はちょっと説明することにあきらめモードです。「旧字旧かな」という呼称にこだわる人は、別にそれが正しいからだと考えているわけではないのですから、説明するだけ無駄なのだと。<br> せめて、「旧字旧かな」と聞いたら、頭の中で、「古くからある文字のうちで略していない方、そして、『かなずかい』じゃない方」だと思うことにしています。

# いずし (2002-12-17(火) 16:47)

大吉様。「『必要最低限の基礎的なことを学ぶことが出来ない』人は、サイトを作って全世界に向かって自分の言説を言うべきじゃない」というのは基本的に差別の論理です。ウェブでの意思の表明は今後重要なメディアになっていくでしょう。そんなときに、ある人間は使うことができて、ある人間は使うことができない敷居の高いメディアでありつづけるのであれば、それは随分と不幸なことで、僕はそんな社会は御免です。

# いずし (2002-12-17(火) 17:07)

d(l)4様。エンドユーザーはディベロッパーを責め、ディベロッパーはユーザーに裏切られるのは世の常です。回避はできません。「近頃の若い者は…」とエジプト文明の時代から云われてたそうではないですか。今更はじまったことではありません。<br>そして、今の世界は(困ったこともあるけれども)僕は結構すばらしいと思っていて、これから先、もっとすばらしくなっていけばいいなあと楽観視しているのですが、d(l)4様が今この現状(どんな現状のことを指しているのかわかりませんが)にすばらしいところをを微塵も感じられないのなら、それは随分と可哀想な人生であることだなあとお察しします。

# 区別 (2002-12-17(火) 17:21)

差別ではなく区別の論理でしょう。<br>物理要素と視覚要素を使い分けられない人が書いたHTMLでは<br>読み上げ式のブラウザでは意味が通じないくらい変な読まれ方を<br>します。正確なHTMLを記述していれば意味も取れるし、正確な<br>CSSを使えば音の高低、方向すら指定出来ます。下手なHTMLを<br>載せるくらいならシンプルテキストの方が余程アクセサビリティ<br>が高いと言えます。<br>マイノリティである視覚障害者を無視してもメジャーな<br>ものを使っていれば大多数見られるからいいや…という割り切った差別的な世界を素晴らしいと賞賛するような人は区別されて<br>然るべきでしょう。<br>健常者が見られるってだけで良いならHTMLなんて難しいものを<br>無理して使わずFLASHやPDFで情報発信したらいかがでしょう?<br>リンクも出来るし、視覚効果も高いし、普及率も高い。<br>そうそう。何より、仕様に無知でも仕様違反はしにくい<br>素晴らしいテクノロジーを基盤としています。

# いずし (2002-12-17(火) 17:26)

義珍さん。言語感覚は個人特有のものだと思うので、「正しい」の意味を辞書を引いて調べられても、なかなか納得がいかないのが、頭が固いところです。百歩譲って、リンク先に引用されてました辞典の解釈ですが引用しますと、「正しい」とは「きちんとしてゐる、整つてゐる」だそうです。であるならば略字新かなは「きちんとしてない、整っていない」ということでしょうか。<br>「国語改革が問題なのは、学校教育や公文書の書式などを通して、略字新かなを国民に強制した」(戦後の国語改革なのでしょうか)とありますが、政府というのは民意で成り立っています。もし、略字新かなが問題であるとされるならば、国民のコンセンサスが当然得られるべきで、それを得られなかった旧字旧仮名を使う知識人の怠慢というものでしょう。国語改革以降の出版・新聞の世界はことごとく政府によってお略字新かなにすべく検閲かなにかを受けたのでしょうか。そのことについては存じませんが。<br>また、義珍さんの言葉をお借りすれば、<br>たとえば、略字新かなの文法に照らし合わせて「旧字旧かなの文法は間違っている!」なんていう人はいません。しかし、現代日本において旧字旧かなのような言葉を書いたり話したりするのも、また無意味です。という言説は間違いでしょうか。

# 野嵜健秀 (2002-12-17(火) 17:32)

<br>しかしながら、當時の国語審議会が民意を反映してゐたかと言ふとさうではないのであります。

# いずし (2002-12-17(火) 18:21)

CRESCENT様。申し訳ないですが、貴方の文章は少々長く、論旨もふらついているように思います。もう少し推敲されてから簡潔に意見を述べられればいかがでしょう。そちらのほうが、双方とも有益なように思います。時間と云うものは限られています。<br>僕が氏に云ったのは、「引用元を明記していない」ことについて「倫理的に問題はないか」と云ったのです。故に「失礼だ」と云いました。ここまではよろしいでしょうか。それに対して氏は、「W3Cの規格に則っているから文句を云われる筋合いはない」とのこと。僕は規格なんて知っちゃこっちゃございません。IEを使っているユーザーを無視した規格など有用性がないからです。その有用性がないことを知った上でその規格を用いて、「文句を云われる筋合いはない」と居直るのは倫理的に問題があります。<br>「もし、規則が妥当でない、あるいは有効に機能してない(今回のブラウザの件です)ならば、規則に則っていることはなんの意味もありません」という僕の発言は意見ではなく事実です。何の解釈も行っておりません。事実上有効でない規則には意味が無いという至極当然のことを云っているだけです。意味の無い規則に則って問題なしと断言していることに問題があるのです。<br>そして、僕にマイクロソフトに働きるべきと云ったりW3Cに意見するべきと云える義理は無いはずです。僕は与えられたものを、使い良いように用いる、単なるエンドユーザーです。<br>彼が規格を遵守しているのは、あとで言い訳できるからとか、あとで面倒なことにならないからとか、全く持って妥当な理由ではないではないですか。これは当人が述べていることです。彼は別段正しいと思って規格を使っているのではなくて、保身のために使っているのです。これが無責任な態度でなくて、責任ある態度と云えるのでしょうか。<br>「引用元を表記しているかしないか調べずに「失礼だ」と言ったこと」、そして明らかにIEユーザーには明示していなかったということは調べるまでもなく明らかです。したがって、失礼です。<br>ここらへんから、貴方の論調が怪しくなってきます。「「馬鹿左翼」、「馬鹿右翼」、「西部邁信者」などと彼が使っている事実からも、彼の倫理観というものは十分うかがいうるものですが、「個人の主観のみでなくいろいろ資料を出して」人を人を「信者」呼ばわりしたり「馬鹿」呼ばわりするほうが性質が悪い。これなら、「なんの理由も根拠も示さずにただただ己の好き嫌いや主観のみでそのような言葉を使っている」人のほうがまだましです。云い返せますから。理論武装して反論可能性を封じておきながら、人を貶めるのは、両手両足を縛り上げて袋叩きにしているに等しい行為です。これは倫理観の欠如というより、ある意味言論の暴力行為です。このことをもって、あなたは彼の倫理観を知らないと云えるのでしょうか。この事実をもってしても、彼の倫理観がわからないとしたら、貴方の認知に非常に強いバイアスがかかっているとしか云いようがありません。まっとうな倫理観を持つものなら人のことを馬鹿呼ばわりしないというのは、間違いなのでしょうか。<br>「よみにくい」ということですが、彼は明確に「不便だらうが何だらうが、より正確である事の方が大事です」と述べています。まあ、「よみにくい」という不便さよりりも正確さのほうが大事なのだそうです、それは言い訳ができることと面倒にならないから。<br>僕は倫理観について話題にしてきたつもりですが、人を馬鹿呼ばわりしたり信者呼ばわりしたりすることは倫理観が欠如しているという至極まっとうな論理を理解していただけなかったのは残念でなりません。

# いずし (2002-12-17(火) 18:24)

区別さん?読み上げ式のブラウザでどう表現されるのかわかりませんが、うちのサイトは基本的に見栄えはCSSにしているつもりですが、なっていないでしょうか。

# いずし (2002-12-17(火) 18:56)

野嵜健秀様<br>「當時の国語審議会が民意を反映してゐたかと言ふとさうではないのであります」とありますが、民意を反映しているのかはともかく、違法な手続きでしていなかぎり国語改革は正しいことであるという認識はもてないでしょうか。<br>もっとも、当時の知識人や国民達は、徹底的に抵抗したのでしょうか。もしそうであれば、当時の知識人や国民にとって日本語とはその程度の認識だったのでしょう。<br><br>と、話は変わりますが、貴方の日本語改革に関するテキストなど読ませていただきました。一部、なるほどなあと思ったところはありましたが、やはり、僕の頭では理解に苦しんだり、納得できない点が多くあり、後半部分は殆ど読めずじまいでした。とは云え、理論的な反論をしろと云われてもなかなかできそうにないですが。

# su (2002-12-17(火) 19:03)

いずし様。横やりになりますが、数点のみ。もう時間も遅くなりましたので、お返事は明日で結構です。どうか今晩はもうお休み下さい。<br><br>MicrosoftはW3Cのメンバーに名を連ねています(http://www.w3.org/Consortium/Member/List)。したがって、Microsoft自身が自社の方針と矛盾した製品を出していることになります。倫理的に問われるべきはW3Cでも、まして野嵜さんでもなく、Microsoft社とその製品ではないでしょうか。<br><br>なぜ、いずしさんがIEに固執されるのか疑問です。IEにある機能が欠けていることももうご理解いただけているはずです。無料で使えるブラウザは他にもあります。今後は他のブラウザと併用されてはいかがでしょうか。

# いずし (2002-12-17(火) 19:19)

su様。僕はW3CがどうであろうがマMicrosoft社がどうであろうが、今つかえるツールでコミュニケーションを取るときの最善の方法を考えます。Microsoft社の倫理観を問うことはできるでしょう。しかしながら、機能が欠けていることをあらかじめ知りながら、それを用いることにも倫理的に問題があると思っています。<br><br>また、僕がIEに拘るのは、IEが一番使いやすいと感じているからです。もっとも実際に僕が使っているのは、僕はIEのエンジンを使っているDountというタブブラウザです。ネスケもオペラも試してみたことはみたのですが、このソフト以上の利便性を備えていませんでした。もっと使い良いブラウザがあれば教えていただければ幸いです。

# いずし (2002-12-18(水) 01:39)

「Dount」ではなくて「Donut」でした。失礼。

# su (2002-12-18(水) 09:22)

いずし様。すでに18日の日記がアップされ、ここをご覧戴けるかどうか不安でありますが、せっかくお答えいただきましたので、こちらに続けさせていただきます。<br><br>http://mas0721.tdiary.net/20021216.html#c21によれば、いずしさんは、Webページ製作者もブラウザのユーザも等しく「エンドユーザー」と見做されています。ところで、いずしさんはすでにIEに欠陥があることをご存知です。にもかかわらず、「IEが一番使いやすいと感じているから」(http://mas0721.tdiary.net/20021216.html*c38)欠陥ブラウザをお使いであるとおっしゃっています。いずしさんは、いずしさんがおっしゃるところの「エンドユーザー」の片方を「機能が欠けていることをあらかじめ知りながら、それを用いることにも倫理的に問題がある」と弾劾しつつ、もう片方の「エンドユーザー」が欠陥ブラウザであることを知りながら、それを使い続けることを「倫理的にも問題がある」とお考えにならないのは、矛盾していませんか? いずしさんがお考えのように、製作者も閲覧者も等しくエンドユーザーなら、片側の倫理観のみ問題にされるのは、納得できないのですが。<br><br>IEが使いやすく感じていらっしゃるのでしたら、それをメインに使いながら、問題がある場合に他のブラウザを併用するのが一番問題ないのではないかと、私は思います。以前にも触れましたが、私も3種類のブラウザを併用しております。<br><br>また、「使いやすいブラウザ」についてですが、私のマシンはMacintoshですから、Windowsのブラウザを実際に試したわけではありません。野嵜さんの「User Agentレポート」(http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/ua/)は古い記事もありますが、網羅的にまとめられています。また使用感については、個人差も大きいのではないでしょうか。ぜひ色々お試しいただいた上で、ご自分にあったものをお選びいただければと思います。

# トーコ (2002-12-22(日) 18:14)

今さらなんですが・・・<br><br>>「略字だって旧字と同様旧くからある文字だ」という、考えてみるとおかしな主張<br><br>というのは私の考えのことですよね?<br>私が言いたかったのはそういうことではありません。誤解を与えました。<br><br>私は「正字正かな」の主張に対して、そもそも「正字」=正統な漢字、あるいは正統な字体<br>というものがあるのかという疑問を感じています。<br>「略字」という言い方は、まさに「正字」と対応関係にある言葉で、「正字」を認めるからこそ「略字」というわけで、あえてカギカッコで使ったのは、抵抗を感じたからです。<br><br>野嵜さんのサイトに、「正しい」の意味について「きちんとしてゐる、整つてゐる」の意味だと書いてありました。つまり私が疑問に感じるのは、「きちんとしてゐる、整つてゐる」の意味で「正しい」漢字が存在しなくてはいけないのか、ということです。<br><br>たとえば、正倉院文書には「国」という「新字」が使われています。(申し訳ないのですが今正確な箇所を示す事ができません)でもそれを書いた人は、「國」が「正字」だという概念をもっていなかったと思います。<br>「國」と「国」という字は同じ字だとは考えていたでしょうが。<br>なぜかというと、「正字」という考え方自体、新しく後からできたものだからです。<br><br>勝手な引用なのですが、↓この日記の1998年1月22日(木)「正字」の問題<br>という部分で、とある本を引用した記述があります。<br><br>http://www.tokai.or.jp/undoujyo/history/rekisi.htm<br><br>ここでいう、<br>>中国の清代に完成された科挙の受験用字典を尊重するのは、どこかしら滑稽ではないだろうか。<br><br>というのが私の「正字」に対する疑問の根本になるところです。<br>「正字」というのは中国で生まれたもので、日本でも「正字」というものを理解して漢字を使っていた人間というのは、師について漢文を学ぶことの可能な武士や裕福な町人ぐらいじゃないでしょうか。たとえば浮世草子とか読本とか、あと当然歌舞伎浄瑠璃には「正字」なんて関係なく、「俗字」や「略字」がごろごろしていたわけです。<br><br>そう考えると、戦後の国語改革で「新字」を強制する考え方も、康熙字典の「正字」を正統とする考え方も、「略字」、あるいは「正字」を切り捨てる意味で、どこか似通っていないでしょうか。<br><br>私自身、国語改革や新字新かなに全面的に大賛成という意見の持ち主ではありません。もっと旧字体を学校で教えるべきだと思っている人間です。<br>「新字」という言い方が押し付けられることに対する抵抗感を、「旧字」でなく「正字」という言い方で表しているのかな、とは思うのですが、しかしそもそも「正字」という言葉にもある種のイデオロギーが含まれてるんじゃないかという疑問を感じます。

# トーコ (2002-12-22(日) 18:19)

リンク間違えました。<br>↓お気軽日記1998年1月22日(木)「正字」の問題 です<br><br>http://home.highway.ne.jp/sfuru/okigaru980102.html


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