と、一旦は終わったものの、闇黒日記の記述を見て、誤解があるようなので、引用。
と言ふか、そもそも自分はきゅうじげんりしゅぎと極附けながら、リンクを張つて具體的に何處の誰がさうであると指摘もせず、相手に反論する機會も與へなかつた御仁が、「どうして俺のところにリンクを張らないんだ。反論できないじゃないか。失礼だ」と怒るのは、どうか(してゐる)と思ふ。
と、反論すれば先ず、リンクは張っていましたゆえに、反論する機会は提供したはずで、十分反論なさってる。どこかに偽りがあるなら指摘していただきたい。
(強調は私)僕が「きゅうじげんりしゅぎ」という単語を使ったのは、
これとおなじく、つて、何が同じなんだよ笑ひ。 私の場合、てにをはと、それ以外の語とで、假名と漢字を遣ひ分けたり、讀點で區切つたりして、讀者が意味を取り易くなるやうに心掛けてゐます。全文平假名で書くとか、無闇に漢字を平假名に「開く」とか、さう云ふ事をしても、日本語の文章と云ふ奴は讀み易くなるものではないですからね。
と「闇黒式引用」された後に、僕が、きゅうじげんりしゅぎと題したテキストを書いたまでです。闇黒日記で、
と言ふか、リンクを張つて具體的に何處の誰がさうであると指摘もせず、相手に反論する機會も與へなかつた
と書かれているのは、間違いのように思うのですが。「きゅうげんりしゅぎ」という言葉を冠したテキストに闇黒日記へのリンクを張っておいたはずですが。
もしくは、仰っていることが、「リンクを張っているにも関わらず、具体的に何処の誰がそうであると指摘もせずに」と、リンクを張って闇黒日記のことを「ぼうあんこくにっき」としてリンクしていることを問題にされているのか、「リンクを張らずに、具体的に誰がそうであると指摘もせずに」と、リンクが張られていないことを問題とされているのか、僕にはわかりかねます。これは、正字でも正確な記述ができていないのか、僕の読解力不足なのか。
リンクを張らない「闇黒日記引用」をされたのに対して「どうして俺のところにリンクを張らないんだ。反論できないじゃないか。失礼だ」(野嵜さん訳)と僕は云ったのに、ここで何故「リンクを張つて具體的に何處の誰がさうであると指摘もせず」ということが問題になるのか解りません。リンクは張っていました。
もしかしたら、捏造だと仰るつもりなのでしょうか。 と、これが「きゅうじげんりしゅぎ」に対する批判でなくて、「きゅうぶんごたい」は「よみにくい」と云うところにに対する不快感の表明であれば、形勢逆転です。甘んじてそのご批判を受けましょう。闇黒日記に対する直接的な批判では無かったものの、そう受け止められてもおかしくない不適切なことを書き、真に申し訳ございませんでした。一方で、そちらの誤認で嘘偽りの記述をされたのであれば、謝罪をしていただきたい。
あと、相手の言ふ事を理解しようともせず、一方的に自分の主觀的な意見を押附けようとするのも、そこで行はれてゐる事が議論であるのならば、失禮ではないでせうか。
と、僕は最初に「読みにくい」と宣言していて、それを貴方は否定なさらなかった。それでも、僕は読んだわけですが(国語改革のあたりまでは読めたし内容もある程度は理解したつもりですが)、僕はそもそも読むということは理解しようとする行為だと解釈していますが、そうではないでしょうか。もっとも、略字新かなを使っている人間に旧字旧かなで主張したところで、それは暖簾に腕押しです。広東語しかしゃべれない人間に北京語でしゃべるようなものじゃあないですか(そこまでは違わないかどうかは知らない)。というか、読んだという事実を(これも捏造と云われてしまえばおしまいだけれど)、理解しようとしたと認められないのですか。
「俺にはあんたの意見が理解できない、だからあんたの意見は駄目だ」と云ふ主張は、自分の主觀は絶對の眞實である、と主張してゐるやうなものですから、どちらかと言ふと「トンデモ」であるやうな氣もしますねー。
貴方は僕の意見をどれだけ理解したのでしょう。引用に関して異をとなえると「文句を言はれる筋合ひではありません」とくる。フェアかと問うと「フェアかどうかは知りません」とくる。貴方は僕の意見をどれだけ理解したと云うのでしょう。こちらが「トンデモ」として理解不能と断罪するならば、理解を示さない貴方も「トンデモ」ではありませんか。
闇黒日誌と議論を交わしたことで、いろいろな批判を受けましたが、正直しんどかったことは認めますが、引用の正規表現、国語改革、日本の文化に対する認識など得たところは多かったと思っています。
このような、客観性と論理性を重んじられる野嵜さんが、感情に任せて事実無根な的外な誹謗中傷をされるとは思いませんでした。残念です。
と、ときには感情的になってみるテスト。少しはすっきりしたかな。
てか後で気付いたのだけど、「ながら」の解釈が「その動作・作用と下にくる語の動作・作用とが並行して行われることを」という解釈のもとの議論だけれど、「上の事柄と下の事柄とが矛盾する関係にある意」だったら論破されるわな。正字でも日本語は難しいってことか。
と、難癖つけられたら、「きゅうぶんごたいのさいと」と「闇黒日記」の関連性を示す論理的整合性は無い。かつ、「きゅうぶんごたい」などという単語は存在しないと先方も仰っているとでも云おうか。
というわけで、明日から待ちに待った冬休みです。というわけで、暫く胡桃日誌はお休みです。似キ非ントリック短歌チックは気まぐれで更新するかも知れません。ちなみに、荒れると嫌なのでツッコミのシステムは休暇中は停止してます。、ここに専用掲示板ができているようなので、そっち方面の方はそっちを利用してください。あしからず。
ではでは、ヴォナセーラ!
なんかちょっと最近疲れ気味。そりゃあそうです。あたりまえですって声が聞こえてきそうです。変な事に首を突っ込んでしまったことで、通常の日記をどう書こうか考え込んで、ああでもない、こうでもない、と迷っています。
嶽本野ばら「下妻物語」読了。
内容は、期待を裏切り恋愛ものでなくてコメディ。まあ、最悪とは云わないまでもキャラが立ってなくて、主人公二人とも野ばらちゃんの地の言葉をしゃべっているような気がするのは僕だけだろうか。やはり彼は基本的に自分語りの人なのですから、エッセイや短編のほうが平板な記述が許される分、得意そうです。というわけで、新作「パッチワーク」はエッセイということで期待しているのです。ちょうど、読み始めたところで評価は…まだわかりません。
「神田神保町古書街ガイド2002〜2003」を入手。これ、結構早くに出版社から在庫が無くなったそうですから、結構レア物です。暇を作ってゆっくり読みましょう。
高校は今日で仕事納め(僕だけですが)。明日からぱーっと旅に出ます。
ふと、随分と会ってない、そしてこれからも会う可能性がないかもしれない友人から空メールが届く。今回だけ寄ってくれたのだろうか。そうであれば、随分と見苦しいものを見せている。もしくは、ずっと見ていてくれて、ふと送りたくなったのだろうか。理由はわからないけれども、気になる。気になるなら、訊けばいいけど、それだけのためにメールを送るのは気が引けてしまうのだ。
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以下の文章・ツッコミは議論に興味がある方のみお読みください。気分を害される恐れがあります。
って、勝手に終わらせます。へた連スタンダード云うところの「丸投げ刑事」です。これくらいじゃあ気分がおさまらん!と云う奇特な方は、ここらへんあたりでされるとよろしいかと思います。きっと暖かく迎えてもらえるでしょうし、喜んで議論してくれると思います。
この、一週間のアクセスは二千超。一回の更新につき300程度。普段と比較したら二倍程度。あれだけリンクにされたも関わらず、さほどの集客が無かったのは客層が偏ってたのと、常連さんに引かれてしまったのと、要因は二つだなあ。関連ツッコミの総数は88。労力の割には得るものは少なかった…。 と、最後の引用、d(l)4さんより
えーと、僕の使っているブラウザでは、現在「胡桃の中の航海日誌」の引用部分が全く表示されません。そこで、製作者責任において、対応をお願いします。それと、ベンダーへの弾劾もお願いします。僕は、ユーザーらしいので、責任がありませんので。
てか、引用部分が全く表示されないのに、今まで議論に加わってたのですか。なんて人だ。思わずつんのめりました。まともに相手をしていた僕が阿呆でした(って、当たり前ですか)。そんな初歩的な指摘はもっと早くしてください。
とにかく、使ってるブラウザをメールでも掲示板でもいいので教えてください。善処します。
su (2002-12-18-Wed 17:22)より引用。
「機能が欠けていることをあらかじめ知りながら、それを用いることにも倫理的に問題がある」と弾劾しつつ、もう片方の「エンドユーザー」が欠陥ブラウザであることを知りながら、それを使い続けることを「倫理的にも問題がある」とお考えにならないのは、矛盾していませんか?
矛盾してはいないはずです。規格というのは、あらゆるユーザーの様々な見方を保証するためのものだと認識しています。よって、欠陥ブラウザを使用することに何の問題もありません。欠陥ブラウザベンダーを弾劾するか、欠陥ブラウザがあるにも関わらずそれに対応しなかった製作者の問題です。
一方、あくまで、閲覧者側の予防措置として複数のブラウザを用いることあってよいことだと思います。しかし、ユーザー側が必ず複数のブラウザを使用することができる環境にあるかどうかは疑問が残るところです。
僕のブラウザの使用履歴はおそらく平成七年からだったと思います。当時は、windows3.1の端末でトカゲのマークのアイコン のブラウザを使っていました。それから、ネスケへ移り、一時期ネスケとIEを併用しており、最終的にIEに落ち着きDonutを使っています。闇黒日記さんがUser Agentレポートでご紹介されているブラウザは殆ど試していると思います(あ、mozillaは使ったこと無いです)。最近もネスケがアップグレードされたら試してみていますし、オペラも使っていますが、同時に複数のブラウザを使うのは面倒だと思っています。
そういう意味では、僕の言説とは矛盾しているかもしれないですが、規格と云うものは大事だなあと思います。
視覚障害者の方のためのカラーコントラストのチェックのサイトはここです。ちなみに、胡桃日誌の結果はこちら。とりあえず、視覚障害者の人には、健常者と大差なく見えるようです。
d(l)4 (2002-12-18-Wed 17:21) より引用。
えーと、個人的な感情は除外するとして
てか、個人的な感情を除外されては困ります。貴方もご自身の感情など除外すると云われたら穏やかではないでしょう。
特定の UA で閲覧した際、出典の明示が為されていないように見える引用を用いたリソースは、法的にも正しくないし、そうなることを知っていながら、そういう引用をしたリソースを WWW において公開した人物は、糾弾されてしかるべきだ。但し、そうなることを知らずに行われた行為なら、仕方がないし、他に発生しそうな問題については与り知るところではない
などとは云ってません。法的に正しくないことは、知っていても知っていなくても正しくないのではないですか?他人のものを失敬するのが法的に正しくないと知らなくとも、失敬することに対しては法は適応されます。また、「発生しそうな問題」=「法的な問題」であれば、僕のあずかり知ることでないなどとは云いません。もし当サイトにあるようなら、是非教えてください。
知っている・知っていないは心情的な問題です。心情的な問題は大問題です。公園で、ボールがぶつけられたとき、故意であったら、故意でないより嫌な気分にナルでしょう。
法曹界というのは、判例主義で判例が無い場合はグレーゾーンらしいで
グレーゾーンであることを行うのが巧妙な犯罪の手口というものです。
初期のブラウザで見て云々ですが、初期のというより、全てのブラウザで見た場合どうなるかなんて、分かりません。というか、WWW において公開されるものは、全てのブラウザで利用できなければならない、などというルールはありません。利用できたらいいな、という希望だけで、利用できない場合も許されると思っています
それでは何のための仕様なのかわかりません。人類普遍の資産という崇高な目標は何処へいったのでしょう。もっとも、僕自身は 仕様の定義は「利用できたらいいな、という希望だけで、利用できない場合も許される」ということであれば、 一致した見解が得られたと云えるでしょう。
逆に言えば、この規格を解釈でない UA で見た場合、このリソースを完全に利用するのは不可能かもしれませんよ、ということです。そこで、利用者はそれなりの UA を用意すれば好いわけです。
利用者がそれなりのUAを用意できるかどうか僕にはわかりません。古いマシンで古いUAしか持たない人間は、「悪いけど貴方の環境ではこの文章は見れません」と説明しておけば切り捨ててもいい。そんな規格もどうかと思います。
もっとも、規格というのは常に変化する生き物のようなものです。便利なようにどんどん拡張されていくでしょう。だから、どのような環境であっても互換性が必ずしも保証されるわけがありません。昔のUAなどではなおさらです。それならば、「標準規格」あくまで、「保証できたらいいな」程度のものと考えたほうがよさそうです。
規格に対する認識というものをずっと考えていたのですが、僕には規格に対するおそろしいほどの怨恨があることに気付きました。その怨恨に基づいて「標準規格」なるものに噛み付いたのは少々当てこすりだったと反省していますが、今回の書き込みを拝読すると、「標準規格」というものがいかに不完全であるかを教えてもらったような気がします。
観戦組なのではないです。ちゃんと言及して差し上げます。Maro's...memo?より引用。
うわ、胡桃の中の航海日誌/「ケシカランというまえに」って全部引用かよ... blockquateしたりしなかったり、っていうのはいかがなものかと。
出典を明らかにして「以上、引用終わり」と引用部分をはっきりとしていても、UIを通して見る人間は引用だということを認識できないんですかねえ。一方で、引用のタグを書いたところで、見ている人が引用に見えなければ意味はないかと。人間が認識できなくても機械が認識すればそれで全然OKですか。と、もちろん、引用タグの正当性は否定するものではありませんし、闇黒日記さんからご指摘を受けた事は厳粛に受け止めて、そうするように努めていますが。
貴方が責められているのは掃除をしないからではありません。一生懸命掃除する事を考えている集団に向かって 散らかしたっていいじゃないか、散らかして何が悪い、僕の掃除機は散らかす事も出来るんだそれでも掃除してるように見えるんだし他の人もそういうのを使ってるんだ、僕の後ろから貴方が掃除してくれれば何も問題ないじゃないか何が悪い?掃除するなら個人の自由だから止めないよ、でも誰かが決めた「整理整頓とはこういうものです」っていう決まり事って本当に意味があるのか?汚してもよい事にしたほうがみんな掃除サボれていいんじゃないか?
そもそも、僕が引用した森毅の引用文を今回の議論と結びつける厳格な「正当性」はどこにありますか?しかしながら、個人の主観的な批判を受け入れないでもありません。こちらも受け入れてもらったのですから。
頑張って掃除をしている人は素晴らしいです。でも一方で、それがやりすぎなんじゃないのと思える瞬間もある。これは個人の主観の問題です。やりすぎなんてあるわけがない。すべての力を注いでやることこそいいことだ、という考え方もまたあってもいいものだと思います。しかし、そういう一生懸命掃除をしている集団が、一方で排他的になることはかなわん、と森毅は述べているのです。
知識と技術を持つ集団が、なぜ排他的なのでしょう。それは集団ではなく、一人一人の意識にさかのぼって考えてみる価値があると思います。 そして、僕はなにも進んで汚いHTMLを書き散らしているわけではありません、できることなら、ある程度は基準に則ったほうが望ましいとくらいは考えているのです。一方で、問題としたのは、基準に必ずしも利便性がともなわないことを、引用のタグから結論付けただけです。他の基準に利便性がないなどとは云っていないし、利便性がある基準であれば守るに越した事はないと思っています。
努力が足りないと実際に読者の方に云われたら、そして、それが具体的かつ利便性に関わる問題であれば、僕も多少の努力は惜しみません。しかし、それは僕個人の問題です。
そして、貴方のサイトの配色はすべて緑系に見えます。デザインが美しいからそのようにされているのでしょう。実際美しい。しかし、これでは読みにくい(てか読めない)ので利便性が低く、努力が足りないと云われたら、あなたはもちろん配色を変えるのですよね。明確な根拠があればそうしてくれますか?そんな筋合いはないですか。ちゃんと調べてみてください。てか、読めないことこそ幸せなことなのだと思えないでもないですが。
tDiaryの機能だか何だかシランけど、彼の土俵でしかない俺サマルールに従わないリンク無しの批判は卑怯だ、しかしHTMLなんてルールはシラネーヨ、そんなルール知らなくても生きてけるんだゴルァ、ってまるで女形の大笑な所だな。
本気でそう思ってるのかエンタテイメントだと思ってるのかよくわからん。 要するに自分の仲間たちにチヤホヤされてるうちは良いが、白日の元に晒されると内容、態度ともにオコチャマというまぁ典型的な例かと。 自分が間違ってないと思ったから強気に出て恥をかいてるのだから、その報いは甘んじて受けるべきだろね。
「その報い」って、あなたのサイトに絡まれていることですか(笑)。
折角、高度な知識と技術をお持ちであるのに、そこで表現されていることに品性の欠片もない「うだうだ言ってきたもの」しか「公開」されてないのはまことに残念な事です。その高度な知識と技術はもっと貴方にとっても社会にとっても良いことに使われてみてはいかがでしょう。もっとも、その品性の欠片もないことが一つの芸だと思っていらっしゃるとすれば、それは誰も止めはしません。
古代ギリシャ詩人ユベナリスは云いました。
健全な精神は健全な肉体に宿れかし
強調部分は私によるものです。
と。彼の嘆きもわかるような気がします。健全な精神は正しい知識・技術に宿ってたらいいなあ…(以下略)。と、これは皮肉。 てか、こっちも品性お下劣破廉恥極まりない言葉で云えば、いい歳こいてX-Men
胡桃の中の航海日誌のいずしさんには、國語國字問題解説とHTMLの定義のための覺書の文章を讀んでいただいて、その上で批判なり何なりをしていただきたいのであります。 相手の意見を讀みもしないで、ただイメージだけで非難するのは、どうも民主主義の御代にふさはしくない態度だと思ひます。また、「私はかう思つた」即「眞實」と云ふ事にはならないのであり、自説を展開するには或程度の理論的な裏附けは必要だと思ひます。もし、論理的な主張をしてゐれば、それが當座、相手に通じず、論爭で負けても、客觀的な評價、後世の評價があるとしたら、そこで高く評價される事もあるでせう。 逆に、イメージで相手を極附けるとしたら、それが當座、有效な戰術として機能したとしても、自分が卑怯者と云ふマイナスイメージで語られる事もあり得るのであり、何より客觀的な評價を得る事が出來なくなります。
國語國字問題解説は拝読したのですが、途中まではある程度理解できたものの、どのあたりからか僕の頭では御説が正しいのか、そもそも何をおっしゃっているのかわかりかねました。まあ、僕の読解力と理解力が悪いのか、単に文章の意味がとり辛く書いてあるのかはわかりませんが。別に「正字正かな」の習得が難しいなどと思わないし(学校で最初から習ってたら誰でもある程度は読めるし書けるはずです)、方言ユーザーとしては読み言葉と書き言葉が一致しているとも思えません。そして、どうして、「略字新かな」が不便なのかもわかりませんでした。よろしかったら、「略字新かな」で簡潔に解説していただけるとありがたいのですが、あれだけ膨大に理論武装されたものを、簡潔に述べることなど貴方には不可能でしょうし、きっと「略字新かな」で書いても誤解されるだけと思ってらっしゃるでしょうから、おそらくお書きにならないと思いますが。メッセージを伝えたいのなら、その相手の視線で話をして欲しいものです。
また、論理的な主張をしていても相手に通じず、論争に負けてたら、僕は残念で自説の展開に無理があったと思うだけです。客観的な評価や後世の評価など、僕には預かり知らぬ問題です、それは僕の論理的主張と必ずしも対応するとは限りません。今の人は私の事を認めてくれないけど、きっと後の時代の人は私を認めてくれるだろう…というのはいかがなものかと思います。
イメージは大切です。もしかしたら論理より大切かも知れません。卑怯者と云うマイナスイメージで語られたりして、信用を失った人間の言葉、性格が悪いと判断された人間のの言葉は客観的な評価が得られないことには同意します。 同じく、平成14年12月18日より。
御飯を炊く時、今の我々は、電子炊飯器を使ひ、御釜を使ひません。食事をする時、一家の主人が一番の上座に坐り、下座に子供達が竝び、端の厨房に近いところで御母さんが隠れるやうにしてゐる、と云ふ事もありません。家に據つては、正坐ではなく、椅子に坐つて、テーブルで食事をする事もあるでせう。
ご飯を炊くのに御釜を使っていたのはいつの頃からでしょうか。弥生時代、土器を使っていた頃は日本の文化ではないでしょうか。竪穴式住居であぐらをかいてご飯を食べていたとしたら、それは日本の文化ではないのでしょうか。どうも、貴方は特定の時代にスタンダードであったものを文化と呼ばれるようです。
「旬のもの」と云ふ概念は無くなり、何時の季節のものでも手に入るやうになりました。 (中略)しかし、お百姓さんに申し譯ないから、一粒も御飯を殘してはなりません、等と言はれる子供はもう、少いのではないですか。
勝手な憶測をされては困ります。少なくともうちでは「旬の物」が食卓に供されるのが殆どです。旬の物でなければちょっとお高いですしね。しかし、これは日本の文化の中核などではありません。
そして、「お百姓さんに申し譯ないから、一粒も御飯を殘してはなりません」というのはうちの父の口癖です。実際僕は、それを忠実に守ってきたし、その考え方を正しいと思っています。きっと、子どもを育てることになったら、同じように子に云うでしょう。これももあた、残念ながら日本の文化などではありません。
「旬のもの」などという概念は歴史によって植生などから変わりますし、「お百姓さんに申し譯ないから、一粒も御飯を殘してはなりません」というのはたかだか農耕文化が始まってからのことではないですか。貴方が云われている文化とはそんな狭い範囲のことなのでしょうか。 それでいて、貴方はどれだけ日本の文化を尊重した生活を送られているのか、僕には分かりません。もしかして、チョンマゲとかを結っておられるわけでもありますまい。 日本文化にのっとった生活をしていないあなたに、日本に文化など無いと言う資格はありません。こっちはそれなりに、日本の文化生活を楽しんでおります。
襖や疊、障子も、家によつては生きてゐるでせう。しかし、輕量鐵骨の家は、襖や障子や畳が使はれてゐたとしても、最早日本の建築とは言へないものです。また、畳はあつても、疊の上での作法まで生きてゐる家は、日本にどれくらゐ殘つてゐるでせうか。疊の上での立居振舞ひが身に附いてゐる人は、どれだけゐるでせうか。また、疊の上で生活してゐても、服は洋服です。
襖や疊、障子なども、僕は日本の文化の例として取り上げましたが、そんなものは文化の端くれです。このようなエサのような記述に食いつかれるとは思いもしませんでした。縄文時代の日本人は竪穴式住居に住んでいたではないですか。襖や疊、障子などはもちろんありません。貴方はこれは「縄文文化」であり「日本文化」から断絶されているとおっしゃるのでしょうか。それであれば、歴史上の何年から何年までが「日本文化」なのか明示していただきたい。この答えがないかぎり、あなたにとっての日本文化というものが具体的に見えてくることはないでしょう。
能にしろ、歌舞伎にしろ、狂言にしろ、日本人の日常の娯樂とは最早なつてゐません。落語はまだ、テレビ演藝としてそれなりに人氣は保つてゐるとはいへ、その他の傳統的な演藝は、既に映畫やテレビと言つた舶來のエンタテインメントにその地位を讓つてゐます。能も歌舞伎も、最早博物館の陳列物のやうな死物としてしか、一般の日本人には認識されてゐません。
貴方は客観的、論理的であることをよしとされます。素晴らしい事で尊敬に値します。しかしながら、一般の日本人の認識をどのようにして「客観的」にお調べになっって主張されたのかわかりませんが、もしそれが客観的な事実に基づかないで主張されているのなら、これと同じく「『旧字旧かな』も、最早博物館の陳列物のやうな死物としてしか、一般の日本人には認識されてゐません」と云うことも可能です。
「最早博物館の陳列物のやうな死物としてしか、一般の日本人には認識されてゐません」などと云い放ってしまうのは、貴方がお嫌いな「量の論理」に他なりません。「質」の話をしましょう。だいたい、そんなことを云ってはそれを楽しんでいる人に失礼ではありませんか。旧字旧かなを「死物」と言い切られたら残念ではないですか。最近は古典芸能ブームと云われます。能にしろ、歌舞伎にしろ、狂言にしろテレビで見ることは(まれにではありますが)できます。大切な日本の文化です。
今の日本人の思想觀念も同じです。例へば、「神」と云ふ概念一つをとつても良いでせう。今の日本人が「神」と言つて思ひ出すものは、一體何でせうか。キリスト教の神の概念が、かなり強い印象となつて思ひ起されるのではないでせうか。その癖、キリスト教は信じてはゐない、知識としての神樣しか日本人は知らないのであります。その一方で、天照大神や素戔嗚尊の神話は既に忘卻の彼方です。日本人は、神樣と言へば傲岸不遜で絶對の權力者であるかのやうなイメージで語つて見たり、憎んで見たりする一方で、絶對者を戴く民族の苛烈さだけは身に著ける事が出來ず、依然、2000年前と同じ「和をもつて貴しとなす」民族である。その一方で、マルクスやレーニンのやうに、神を否定しても見せる。
「神」という概念が、日本人にとって「キリスト教の神」だなどと誰が決めたのですか、神様と云えば、神社に祭られていると決まっています(僕の主観ですか?)。そして日本人は信仰心厚く、初詣に行ったり、七五三に行ったり、結婚式をしたりその他お祭りでお神輿をかついだりだんじりを引いたりしているではありませんか。キリストを神だとしている例があれば、クリスマスを祝うことくらいです。もっとも、せいぜいクリスマスは家族でケーキを食べるか、カップルがデートする大義名分にしか使われていませんが(クリスチャンの人にはごめんなさい)。僕は、我が村を拓いた天日鉾の熱心な信者です。今まで500円くらいは賽銭を出したと思います(笑)。
「依然、2000年前と同じ『和をもつて貴しとなす』民族である」であるということは、民族的性気質という文化が2000年もの長い間受け継がれてきたということなので、貴方が云われている文化的断絶を図らずも否定されているように見受けられます。
中島敦が「かめれおん」に、日本人を喩へてゐます。何と醜いかめれおんだ、と。
醜いなどと、そんなことを云ってはカメレオンに対して失礼ではないですか(笑)。日本人はカメレオンです。
国益のためなら正当性など関係なくアメリカを支持しますから。カメレオンのごとく柔軟に色を変え、アメリカと云う色を保護色することは、良い事のように思います。色が変らなかったら、それこそ日本は転覆してしまいます。イージス艦の派遣が合憲なのか違憲なのどうなのかなどかまいはしません。
しかし、同じ不合理であつても、今の日本人と昔の日本人には大きな懸隔があります。昔の日本人の方が正直であつたし、眞摯であつた、少くとも今よりは増しであつた。昔の日本人は、世間の多くの人がするやうに振舞つたが、世間が全體で不合理な何かを信じてはゐた。今は違ひます。今は、世間がみんな合理主義であるかのやうに言つてゐるにもかかはらず、實は甚だ不合理な事を一齋にやつてゐる。
今の日本人というなかに貴方は含まれているのでしょうか・いないのでしょうか。もし含まれていないのであれば、あなたは日本人ではありません、あるいはあなたの指している「日本人」は「日本人」の一部の集団の事を指す筈で、何より正確さを身上とされる貴方であれば、呼び方を変えられたほうがよろしいかと思います。
昔は良かった…それに比べれば今は…という気分というのはいつの時代にも普遍的なことなのでしょう。歳を食ったらそう思うそうです。僕自身もそう思うことが多いのでそろそろ歳かと思います。
しかし、現状を嘆いてもなにもはじまりません。
哲学者である岸見一郎はアドラー心理学に出会った頃・邂逅の日々に、アドラーの弟子、ドライカースに師事したクリステンセンの言葉を引用しています。
今のあるがままの自分を受け入れなさい。今日僕の話を聞いた人は、今この瞬間から幸福になることができます。しかし、そうでない人は、いつまでも幸福になることはできません
「いささか誇張を含んだ表現であるといえなくはありません」と岸見も述べていますが、人間の性質についても、その人間の文化に対する態度も同様の側面があると思います。
正座は江戸期以降の習慣ですね。重箱の隅を突付きますが。それ以前はあぐらか立て膝。平安時代、野外では椅子(床机)に座っていました。わあ、日本に「日本文化」ができたのはたかだか400年前だったのか(笑)…ってことになりますね。
議論に直接関係ない話題で申し訳ありません。18日付けの日記にあった、すあまさんの2回目のツッコミが、リロードしたら消えていました。実は、私も(日記サイトではありませんが)Webサイトを運営しておりまして、配色を考える上で、後で調べてみようと考えていたのです。恐縮ですが、ご紹介いただいたURIを、再び掲載していただけないでしょうか。
いずし様。ご回答ありがとうございました。<br><br>では、製作者は閲覧者に配慮すべきだとおっしゃるわけですね。閲覧者が欠陥ブラウザを使っていても、製作者はそれに対処する必要があると。http://mas0721.tdiary.net/20021216.html#c40において、すでに私は以前のいずしさんの主張から引用を行いました。長くなりますが、以下に別の箇所を引用します。<br><br><br>同じ「エンドユーザー」なのに、なぜ片方がもう片方に配慮しなければならないのでしょうか。「エンドユーザー」の中にもヒエラルキーがあるということなのですか? いずしさんによれば、製作者も「エンドユーザー」です。いずしさん風に申し上げれば、次のようにはならないのでしょうか。<br><br>エンドユーザー、すなわち「ブラウザのシェアにあまり関心を持たない人にとっては、HTMLも標準規格もまず現実があったのでしょう。でとりあえず現状で不自由なく使えているのに、実は『欠陥ブラウザ』があるんだ、なんて言われてもピンと来ない」のです。<br><br>「カラーコントラストチェッカー」のURIの件、ありがとうございました。これから調べてみます。
<br>「実は『欠陥ブラウザ』を使っているんだ、なんて言われても」の方が、今まで判明している事実に即しているかもしれません。
えーと、大抵の場合、公の場所では、個人的な感情は除外したいなと思ってますけど、子供じゃないので。<br><br>えーと、少し修正します。<br>「特定の UA で閲覧した際、出典の明示が為されていないように見える引用を用いたリソースは、法的にも正しくないし、そうなることを知っていながら、そういう引用をしたリソースを WWW において公開した人物は、糾弾されてしかるべきだ。但し、そうなることを知らずに行われた行為なら、法的には正しくないが、心情的には許せるかもしれないし、この他に発生しそうな問題については、法的な問題を除いて与り知るところではない 」<br>ということですね。<br><br>ところで、グレーゾーンと言いましたが、実際には白でも黒でもなく、断定できない、というのが現状だと思います。何を根拠に、と言われると双方とも、これといった根拠がなさそうだからですけれど。<br><br>扨、「規格に対するおそろしいほどの怨恨がある」人が「個人的な感情」を基に、仕様や規格などを度外視して作ったブラウザがあるとします。というか、そういうブラウザが存在する可能性が、世の中にはありますし、過去に存在した可能性もあります。何故なら、そういうブラウザを作ってはいけないというルールは無いからです。自由で素晴しい世の中なので。<br><br>となると、そういうブラウザに対しては、リソースが仕様・規格に準拠していようが、いまいが、確かに意味がありません。<br><br>例えば、どんな方法で出典を明示されていても、その部分だけを絶対に表示しないブラウザ(名付けて「引用禁止・感情保護ブラウザ」)に対しては、引用文の近くに出典を書いておいても無意味です。そういうブラウザに対しては、手の施しようがありませんよね。<br><br>そういう意味で、全ての UA でどう見えるかは分からないと述べたのです。<br><br>ところで、時間は過去から未来への一方通行です。大抵の場合。「人類普遍の資産という崇高な目標」は、現在から未来の為にあります。極端な話、江戸時代の人は WWW を利用することが出来ません。まだ、WWW も無いし、「人類普遍の資産」も無いし、WWW を利用する手段が無いからです。よって WWW の恩恵からは切り捨てられています。<br><br>しかし、江戸時代の人も「人類普遍の資産という崇高な目標」に貢献することは出来ます。情報を文字に置き換えて、後世の為に残しておけばよいのです。書物ですね。そう、未来からのメッセージは届かないのですが、未来にメッセージは届けられるのです。ところが、この時、出鱈目な文字(つまりは仕様・規格無視)で書いてしまっては、後世の人には読めません。そこで、仕様・規格に準拠した(この場合は日本語ですか)文字で書いておく必要があるのです。<br><br>ここでちょっとした問題が発生します。江戸時代より後世で、文字の規格が変わってしまう場合です。以前の規格との互換性を考慮せずに、文字の規格を変えてしまい、古い文献が読めなくなるという事態です。読みづらい、アクセシビリティが低いなどということになってしまいます。これは、規格が変わったことが問題なのではなくて、以前の規格との互換性を考慮せずに規格を変えたのが問題なのですが、それは置いとくとしても、当時の規格が分かれば判読することは可能です。仕様・規格に準拠していないよりは、準拠していたほうが好いわけです。<br><br>つまり、WWW に置いてあるリソースも、それを利用する UA も仕様・規格に準拠していれば、そしてその仕様・規格を変更する場合は、以前の仕様・規格との互換性を考慮していれば、現在から未来において「人類普遍の資産という崇高な目標」に近づくことが容易であるということです。なおかつ、現在までの仕様に準拠してリソースを製作しておけば、たとえ将来、互換性の無い規格になってしまったとしても、どういう仕様で製作されたかさえ分かれば、利用することが可能なのです。逆に出鱈目の仕様無視なリソースでは、どうやっても利用できない恐れがあるということです。よって、仕様準拠したリソースを製作しましょう、ということです。<br><br>ちなみに初期のブラウザが何を指すのか分からないので、全てのブラウザとして考慮したわけですが、おそらく、W3C 設立以降に作られたブラウザで W3C 勧告の仕様に準拠したブラウザであれば、現在の仕様に準拠したリソースを閲覧することは可能になっていると思われます。バグは仕方ないけど。<br><br>閲覧しているだけの利用者はユーザーであり、仕様も規格もヘッタクレもありません。その時点でのユーザーは、「人類普遍の資産という崇高な目標」には何の貢献もしていないわけですから。しかし、WWW においてリソースを公開しているという行為は「人類普遍の資産という崇高な目標」に多少なりとも貢献しているわけだし、それはユーザーではないと思います。むしろディベロッパーであり、「人類普遍の資産という崇高な目標」の為に仕様や規格やヘッタクレを尊重してほしいなあ、というのが私の思いです。
>よって、欠陥ブラウザを使用することに何の問題もありません。欠陥ブラウザベンダーを弾劾するか、欠陥ブラウザがあるにも関わらずそれに対応しなかった製作者の問題です。<br><br>誰が、ベンダーを弾劾したらよいのでしょうか。製作者ですか。<br><br>えーと、僕の使っているブラウザでは、現在「胡桃の中の航海日誌」の引用部分が全く表示されません。そこで、製作者責任において、対応をお願いします。それと、ベンダーへの弾劾もお願いします。僕は、ユーザーらしいので、責任がありませんので。