2002-11-17(日) 論理と感覚/blog/お茶日誌:サンプル届く [長年日記]

論理と感覚

 僕もそんなことができたらと思うが、感覚ではなくて論理、つまり僕の書いたものを読んで納得して、また、僕の話を聞いて納得して、人生を変えてほしいと思う。(吉本「※引用者注」)ばななは読んでなくてもわかってなくてもいいというが、このあたりずいぶんと違うと思った。

岸見さんのIchiro’s Home Page Rakuten version - 考えたこと、読んだ本の…11月16日より引用。

人生を変えてほしいとまでは思わないが、僕が文章を書いているのはおそらくそんな動機もあるのだと思う。僕はここで言われている感覚というのがよくわからないし、そして、それによって何かが伝わるとはあまり考えていない。人に何かが伝わるとしたら、そこに何だかの論理があるからだと思っている。

でもよくわからないな。論理なんて言っても、あくまで自分が理解できる範囲内での論理だし、でもその論理の上にたって初めて感覚というのが駆動するような気が僕はする。感覚が優れている人は、その論理の段階を意識せずに出来ちゃうんだな、きっと。本読んでなくても議論してなくても、それが出来れば人間OKな気がする。一方で、感覚なんて希薄な僕は、本を読んだり議論をしなければ論理の段階がおろそかになるから感覚を感ずることが出来ないのだと思う。

夕日が綺麗だ、感動した!それもありだけど、それで僕に伝わるかどうかはあやしい。なんとなく、僕はそんなプライベートな感覚を押し付けられても困るという気がする。それくらいなら、少し恥ずかしくても、夕日のあの浮かんでいる雲が紫から赤に変化していくところから見える奥行きが云々ともっともらしいことを恥ずかしげも無く言ってくれたほうが、伝わるような気がする。これは、相手の問題じゃなくて僕の問題なのだろうな。 相手の感覚を共感したいという欲求は無くて、相手の論理を納得したいという欲求はあるというか、こんなの非人間的なコミュニケーション観ですかね。

しかし、論理的だということと納得ということはまた別なのかなとも思ったり。腑に落ちるとか、論理的でないと腑に落ちないけれど、論理的だとしても腑に落ちるとも限らない。論理→感覚のレベルをクリアしないと納得できないのかも知れない。でもやっぱり論理を飛ばして納得することは出来ないなあ、というかしたくない。

たいした頭をしてないのに、頭でっかちであるなんて、ちょっと恥ずかしいことでもある。だからといって、自分の感覚が単純に相手に伝わるってのもあまりに素っ気無すぎて恥ずかしい。どちらでも羞恥心を感じるのではあるけれど、やっぱり幾分頭でっかちであるほうがいいかなと思う。

スポーツの話をする。芸能の話をする。その話を裏支えする論理があるのだろう。問題はその論理について自覚的かということと無自覚だということ、そしてその論理を好むか好まないかということだと思う。

僕はスポーツや芸能の話をしない。多くの人が話せる論理の世界を僕が共有できていないのは残念なことだが、僕がその論理を好まず、理解するまでの労力が惜しい。

こんなweb日記を書いているのも、人に理解されたいがためだし、僕の持っている論理が読者と共有する、あるいは、僕の論理と読者の論理が相対化される(議論可能になる)ことを望んでいるのだと思う。

一方で、僕は感覚的なものより論理的なことをより信じているのも確か。なんとなくわかるじゃ納得できないというのはあまりに度量が小さいかも知れないけど、こればっかりは仕方がない。まだまだ若いのかな。人間関係の機微というのを理解できないでいる。

というか、話は飛ぶけれども、共感なんて糞喰らえだと思っている。まがりなりにも心理をしていて、臨床心理に一定の理解を示してはいる僕だが、やっぱり共感なんていうのはなんだか茶番臭いと思う僕は勉強不足なのだろうか。

目の前に泣いている人がいて、あなたが泣いているという事実に共感し、私も悲しい、泣きたい。なんてことは無く、僕が考えるのには、あんたがここで泣いている事実はちょっと僕にとっては困ったことである、というか、あんたが困ってるから泣いているでしょう、それは泣かなくていいようにあなたがなんとかせんといかん。そのためにはあんたが困っている事実をなんとかせんならん。それはあなたの問題でもあるけれど、こっちも乗りかかった船やし何をしたらいいのか一緒に考えたいと思うのだけど、さてどうしましょう。とりあえず、あんたが困ってることって何ですか。と僕なら言ってしまうと思うなあ。

中学校でのカウンセリングはそんな感じで常にやってたような気がする。冷たいかなあ。よしよし悲しいねえなんて死んでも言えない。これは、書いているうちにキョウさんの日記を読んでそう思ったのだ。僕の知っている心理臨床家というのは結構優れたひとが多かったけれど、仕事は仕事、プライベートはプライベートでしっかりと、それも必要以上に意識して分けている人が多かったと思う。共感なんて学派によりけりだけど、それでいてもやはり仕事は仕事なんだと思う。だから、日常場面でセンシティブな反応をすることが、臨床家の条件であるとは思わないのだ。

と話はそれました。そんな共感に希薄なこういう僕でも短歌を好んで読んでいる。朝日新聞に毎日一つ載っているやつだ。何回も復唱して解説を読んで、いろいろ考えて、ああこうかと腑に落ちることは滅多にないけれど、それがあるとすごく嬉しいのだ。これだって論理的営みであるはず。

というか、論理と感覚なんて文章を書いているのに、論理的帰結になってないのがばればれだったら恥ずかしい。でもweb日記というものは恥ずかしさの上に立つ文学だと思っていると言ってしまうなんて恥ずかしい。

blog

この騒動は僕が丁度日記読みをしていない時期(今もあまりしていませんが)だったので、最近になっていろいろと調べて、元ねたになっている東京大学のtakemuraさんの当該blogにアクセスしたのですが、これがとんでもない内容。

weblogの変種ですとか、掲示板とどう違うのとか、そんなサービスはいろんなポータルでやっていますとか、毎日楽しく拝見させてもらってます云々.....そもそもこの手の質問がまだまだblogの行く手を阻んでいる。

とか、

こうなったらfrontier sciencesなんで、blog environmental studiesで、一挙に研究テーマを設定。社会から文化、経済などにblogが及ぶす影響を予測する(大胆な試み)研究を実行に移すこととなった。

そのコメントにちょっと頭にきたもので、遅ればせながら、少々感情的な突っ込みを入れる。

問題提起は二点、研究として銘打っているのであれば過去の蓄積を省みることをしておらず、従来のweb日記、テキストサイト、ニュースサイトとblogがどう違うのかということについての概念規定をせずにblogという言葉を使っていること(当人はweb日記など読んでいないそうですし)。

もう一点は、blogに対する各所での反応が、blogの行く手を阻んでいるという認識。新しい概念を提唱しようとした場合、blogとは何か、他のものとはどう違うのか、同じではないかとか、他のサービスでそんなことをしていますとかそのような意見に真摯に答えていくことは、blogの行く手を助けこそすれ、行く手を阻むというような認識が、仮にも研究者の口から出ているということが信じられない。これは、研究という営み(基本的な手順・反論などのコミュニケーションに開かれていること)に対する冒涜だということ。

まあ、僕がつっこむ以前にいろいろな人がコメントをしているので、これ以上彼にたいしてああだこうだ言うことはしないと思うし、真摯な内容のメールも頂いたのでまあ納得はしました。

基本的に僕はtDiaryとblogの違いがわかりません。tDiaryの作者はこれを研究するだとか、これが日本のネット世界の革命になるだろうなんておっしゃってないと思います。現実的にはweb日記の世界にはかなりのインパクトだったと思いますし、多くの人がこのシステムを使っていることからそれは明らかでしょう。問題はblogというものが、数々の日記システムとどういう差異を明らかにしていくかが問題だと思います。blogについてはこれからもウォッチしていきたいと思っています。

お茶日誌:サンプル届く

レピシエからお茶のサンプルが届く。碧緑のLF305プーアル珈琲(プーアルカフェ)と、テイエ854CAROL(キャロル)の二種類。どちらもフレーバーなので自分で買うことはないだろうから、こうやってサンプルで少しだけもらえると嬉しい。両者ともミルクティーでもいけるとか。試してみよう。

はてなアンテナにお茶系の日記を大量に登録しました。利用者の方はびっくりされたでしょうけど、ご理解ください。

今日は、アイスのほうじ茶のみ。

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