2002-02-28-(木) In my life [長年日記]

思い出すいくつかの場所
僕の人生
変わってしまった場所もあるけれど
変わっていない場所もある
なくなってしまった場所もそのまま残っている場所も

In my life

街に行くついでに、散歩がてら十年前くらいに歩いていた高校までの道のりをもう一度歩いてみようと思った。街並みは随分と変わっていたが、変わっていないところもあった。

住宅地を縫うように歩くその通学路はいつの頃から出来たのだろう。JRの豊岡駅から通学する生徒は皆例外なく同じその道を通って通学していた。途中にある二つのカフェは変わらず営業している。いつもいつも通るたびに気になっていたが、結局一度も入らなかった。カフェの近くの花屋にも相変わらず名も知らぬ花が咲いていた。

学校裏の神武山の桜はまだ咲いていなかったけれど、僕の記憶の中では鮮やかに花開いている。校門への細い路地。帰途に着く多くの生徒とすれ違い、その声に懐かしいいろいろな人を頭に浮かべる。少し雪の跡が残っている校舎の中庭。A棟、B棟。美術室の灯りはついていた。

僕はよく学校をサボるわるい生徒だったので、出席日数が足りなくなったことがあった。嫌いな教科は体育。僕の学校は文武両道の硬派な学校だったので肌に合わなかったのだ。柔道なんかもあったけれど、身長が高いせいでいつも組み手は重量級とだった苦しい思い出。足らない出席日数を確保するために、体育教師に言われて補習授業と称して学校の雪かきをさせられたこともあったっけ。学校をサボりがちなことで先生にどやされたこともあったけれど、そんなこと僕はいつも上の空でどうでもよかった。

それでも、授業をサボって美術準備室で絵を描いていても小言を言わずにいてくれた美術教師の佐伯先生は大好きだった。先生はいつも甲冑と現代兵器をモチーフに油彩の抽象画を書いていた。テーマを知りたかったけど、いつもはぐらかされてはっきりとは教えてもらえなかった。絵というものはそういうものなのだと暗に教えてくれたものと僕は解釈している。最近新聞で先生が何かの章を受賞されたという記事があり、先生の作品が写真に写っていた。また同じテーマだったのが可笑しかった。

日曜に自治会の仕事で部活の予算編成のための資料作りで学校に行った日もあった。例年にない縮小予算だったので、予算を削られた何処の部からも嫌な顔をされながら予算をつくった。こわもての運動部の部長から脅されたこともあったっけ。それにしても、僕は監査委員だったので、本当は予算作りでなくて予算の監査をしなきゃならないはずなのに。当時自治会で真面目に働いてるのが僕くらいだったからなあ。仕方なかった。生徒総会では予算成立の定足数を保つために体育館の前でメガホンを持って総会の参加を声をからして呼びかけた。

なんて書くと優等生っぽいけど、実際はほんとに劣等生。授業も勉強も嫌いだった。得意だったのは生物と国語と美術だけ。あとは本当に悉く嫌いだった。欠点ばっかりで先生の頭を悩ませたものだった。当時の先生には本当に申し訳ないくらい、勉強に関して僕は無関心だったみたい。

そんな体だったので、教師にはどこの大学も無理と太鼓判を押されていた。受験に対しては関心がなかったが、某私立大学の哲学科を受けた。あとは某国立大学の農学部。そして、某教育大学の教育・心理学科。自分でも何がやりたいのかいまいちわからなかったが、興味の出たのはそれだけだった。滑り止めと目していた最初の私立に落ち、偏差値としては受かる確立のほうが高かった国立大農学部にも落ちた。同じ学部を受けた友人が何人かいたが悉く落ちていたので、参考にした予備校のデータが現実の状況と合っていなかったのだろう。僕はその時点で浪人生活を覚悟していた。それで最後に受けたのが某教育大学。センター試験二科目とグループ討議だけ。今ではそうではないが、当時の僕は何故かディベートに強かった。それで、とんでもない倍率だった試験に合格してしまった。それで九州にやってきた。当時の僕にはそんなシナリオなんて全くありえないことだったのに。人生はどうなるかわからない。

いまふと考える。あのまま農学部に行ってたらどうしてただろう。砂丘のある某県の某国立大学なので砂漠の緑化の研究が盛んだったはず。もしかしたら今ごろアフリカか中国の砂漠で真っ黒になりながら研究してたかも知れない。それでは、哲学科に入っていたらどうだっただろう。今から考えると僕にはそれが一番向いていたのだろうと思うけれど、なにせ三流私立の哲学科だから、将来哲学を研究しようなんてことにはならなかっただろう。地元で公務員でもしてたらいい方。そう思うと、大学受験もかなり大きな人生の岐路だ。当時はあんなに無関心だったのにね。いや、無関心じゃなかったかな。当時は本気で美術系の大学に行きたかったのだけれど、そういう生徒は夏休みに東京の予備校に夏期講習に行ったりしていたので僕にとってそれは高値の花だった。今でも、高校の美術教師なんて一番理想的な職業だなあと思ったりもする。

絵画部員としてもあまり真面目ではなかった。何しろまともにデッサンなんてしたことなかったから。美術教室に行って、紅茶を飲んで友達とだべったり、心象絵画と称してわけのわからない絵を描いたり。当時美術室は一つのサロンだった。ギターを抱えた友人がやってきて僕に教えてくれたり。弾けた曲は、ビートルズのマギー・メイというマイナーな曲だけだったけれど。他には、同人誌を描いている連中とか、書道部の連中とか、いつも誰か絵画部以外の人が居たように憶えている。部員も変わった人間が多かった。60年代ロックに興味を持ったのも、澁澤龍彦に興味を持ったのも、この部活の先輩の影響だ。今では交流はないが、今まで生きてきた中で僕の具体的な価値観に一番影響を与えてくれた人として感謝したい。センスのいい素敵な人だった。

中庭を通り過ぎると、達徳会館という古い建物がある。達徳会という同窓会がつくった建物だが、そこで僕は華道部の部活をやっていた。男子が一人も居なかったから、ちょっと居心地が悪かったけれど。心象絵画の限界を感じていた僕は、様式美というものを得たかったのだろう。一年間がんばったけれどあまりなにも得ることは出来なかった。もう一回挑戦できたらと思う。それでも、人間関係に疎遠な僕が、幼稚園時代からの同級生ので唯一交流のある人が華道部で部長をしていて、それが故で今でも交流があるということは、なかなか得がたいことだったと思う。

ちょっと長く書きすぎたかな。その場所では、いいこともわるいこともあった。それはすべて昨日の出来事のようで。そうであるからこそ、今ここを訪れたことは嬉しくて切ない気分に僕をさせるわけで。そして、その切ない気分さえ、僕の心のなかにぽっと灯るともしびのようで、ふっと吹いたら消えてしまいそうで。だから、僕は両手で囲ってそのともしびを保ち続けている。

行ってしまった出来事や人々へのその思いを失うことはないけれど
ときどき立ち止まり、それを思い出す
僕の人生
僕はそれを愛している

BGM The Beatles - In my life

今日の日記のタイトルそのまま。文中の引用部分は僕の勝手な意訳なので間違ってたらごめんなさい。