「やってどうなる」というニヒリストである僕の視点は、あまり褒められたことではありません。やってどうなるかわからないけど、とりあえずやってみる。そういうのがベターだと思います。
それでもやっぱり、ベストなのは国民がちゃんと国政に参加できるということだと思います。そのための道筋が何年か一度に行われる選挙だけというのは民主主義の機能として万全なのか疑問です。そして、「世論が間違っていることもある」ということもある意味真実を含んではいますが、一国の首相が自国の世論についてそういう認識をしているかと思うと、ちょっとげんなりします。
民主主義って何なのでしょう。ギリシャ地代に戻れとは云いません。今一度、民主主義とは何かということを考えてみることも必要なのではないかなと。
そう云う意味で、これは誤解を生むかも知れないけれども、デモもある意味人を殺さないテロリズムなのかも知れないとも思います。しかし、自論がまっとうな方法で通らないのでデモをやる。それは、テロを行う人の精神構造とやはり少し似たところがある。政治目的を実現するために正統的な手段を用いずに圧力をかけることという意味では。
だからと云って、テロとデモを同じ物として扱えと云っているわけではありません。その行為が同根であると云っているだけです。
もっとストレートな政治目的の遂行方法は無いかしらと思います。
なんだか、最近「基本に立ち戻れ」という感覚を強く持ちます。季節の変わり目だからでしょうか。
今日は、自動車教習所で応急救護訓練をしてきました。講義では寝てて教官に怒られたけれども、実習はかなり真面目にしました。というのは、この応急救護って結構大事なことだと常々思っている割には、知識と技術が伴わないことが情けなかったからです。
やっぱ、目の前で人が倒れて、息が無いとか拍動がない(最近の応急救護では拍動は確認しないらしいですが)という状況に遭遇したとき、何もできないのではやっぱり情けない。この技術と知識は一時間もあれば学習できるもの。小中高と毎年一回ずつでも義務的に授業に取り入れるべきだと思います。
欲を云えば、ある程度いろいろな状況に対応できるようになれればと思います。出血とか痙攣とか発作とか。全ての状況に対応するのは無理としても、いくつかのパターンに対応できればいいなあと。
特に、小学校で働いているときにはそう思いました。体育の授業で突然子どもが倒れたとき自分が何ができるかと考えるとちょっと恐ろしい。
なんてことしながら、今日は女子高生に話し掛けられました。でも、今の時期に教習所にきているということは卒業してるけど制服。何故か知らん。で、結構ヤンキー系。超気楽に声をかけてくるんでやんの。
実習終了後、ベンチで歌集を読んでると、「何勉強してるの」といきなりタメグチ。歌集を見せると、何これって。向井ちはるのOVER DRIVE。これ、タイポグラフィに随分凝っているらしいけど、このタイポグラフィは正直共感できなくて、女子高生に見せても案の定わけわからんとかえってくる。どうしてそんなに奇を衒うんだろうねえ。タイポグラフィに関しては保守的で洗練されていて、ちょっとウイットに富んでいるくらいがちょうどいい。と云いながら、僕はタイポグラフィに詳しくない。雑誌「デザインの現場」で勉強しなくては。
そういうタイポグラフィを勉強しようという背景には、やっぱり自分で何か出版したいという意地汚い意図があってのこと。ホワイトデー短歌祭は盛り上がらなかったけど、なんとか一つの結社が作れればよいなあと考えている。一つにまとまれば、蔵書のやりとりや批評をしあったりお互いの短歌力を研鑚できるのだが。僕の云っている日記で短歌を書く人に対する強力サポートとはそれくらいの意味なんです。
とは云え、うちのサイトはホワイトデー短歌祭を見てもらってもわかるように求心力が無い。ココらへんは、サイト運営者の人徳、なんてことが様々な「ホームページ」作成サイトで言及されていて凹むけれども仕方がない。
教習所の帰り、デパートに寄る。街に出ると、外に出ると短歌のヒントができる。本屋に寄る。類語大辞典欲しいなあ。CD-ROMだったら良かったのになあ。枡野浩一の57577―Go city,go city,city!は無かった。売り切れなのかな。高校の図書館に置いていたら、一人感銘を受けた子がいて、短歌を書き始めたとのこと。嬉しい。僕が結社を作ったら是非入って欲しい。最近知り合いになった本屋の店主にこの本のPOPを作らせて貰うことになる。明日作んなきゃ。
と、今日は久々のアルコホル。キリンの「極生」を飲みました。続けて「淡麗」を飲んだのですが、僕としては薄味の「極生」のほうが好き。缶のデザインもいいしね。まあ、花粉症なので、ビールを少し飲むくらいしかできないのが残念なところですが。
今日はこれくらいで。