2002-12-13(金) きゅうじげんりしゅぎ/STORM萌え [長年日記]

きゅうじげんりしゅぎ

ぜんぶん ひらがなで かいたら、よみにくいこと このうえ ないと いうことは、かいていた はずなんですがねえ。わからなかったのか、ぼくの かきかたが たりなかったのか わかりませんが。ぼうあんこくにっきへんせい14ねん12がつ13にちでは、りんく させずに(っていうのは、ずいぶん しつれいで、ぼくも かるく みられたことだなあ)あげつらわれて しまったのだけれど、それは だとうなこと(りんりてきに ただしいこと)なのですかねえ。ぼくの ぶんしょうに ちょさっけんは ないですか。そんな かち ないってことですかねえ。

てにをはと、それ以外の語とで、假名と漢字を遣ひ分けたり、讀點で區切つたりして、讀者が意味を取り易くなるやうに心掛けてゐます。

と いったからといって、よみやすい とは かぎらないんじゃあないですかねえ。「これとおなじく」よみにくいことは おなじだと おもいますよ。「きゅうじ」が なぜ よみにくいのかと いうと、つかわれている かんじが よみなれて いないからですよ。「きゅうかな」は まだ よめるとは おもうのですけど。まちがって いるのなら してきして ください。 じっさい しばらく この くろい にっきを よんで いたのですが、よめない じが たくさん あったんですがねえ。ぼくは ぎむきょういくは それなりの せいせきで おえたのですが、それでも よめないのは、ぼくの あたまが わるいのか、ぶんしょうが ふつーの どくしゃを そうていされていないのか、どっちかなのでしょう。まあ、うぇぶにっきなんてのは といれの らくがき(しつれい)だと むりやり おもえば、それなりの ひとが よんでくれてたら まんぞくで、いやなら よむなって いうのが とうぜんの きびしい せかい なんでしょうけど。ぼくは できるだけの どくしゃに よんで ほしいのですがねえ。まあ、それは ひとの すきずきだけど。といいながら ひらがなで かいているのは むじゅんしてますが。ひらがなで かくと へいあんじだいの じょせいちっくで なんか いやーんな かんじですけど。

「きゅうぶんごたい」ってのは、ぼくのまちがいです。ごめんなさい。「きゅうじひょうき」のことでした。いやいや、ばきゃくを あらわすって このことですか。

それと「言質」って いうのは「ことじち」でなくて「げんち」って いうんですか、しらなかったです。これで はじを かかなくて すみます。ありがとう。ぺこり。

まあ、でも「きゅうじひょうき」というのは ひらがなひょうきに くらべても よみにくいこと このうえ ないんじゃあないかなあ、ひらがなだと すくなくとも おとだけは わかるしねえ。ひょうおんしゅぎが だめだったんでしたっけか、がはははh。

いっぽうで、ぼくは こてんを べんきょうしたいと おもっているので(はなしは はずれますが、「ろんご」の にかいめの つうどくを している さいちゅうで、「こじき」や「まんようしゅう」が さいきんの おきにいりです。似キ非ントリック短歌も 詠んでいるし。こうこうのころ、ちゃんと べんきょうしてれば よかったなあ)、かれの にっきくらい よめるべきだと おもっているのですが、ざんねんですねえ。よめません。おしえてください。

きゅうじに ruby うって ください、とか いったら だめかな…。おこられるかな。

と、うられても いない けんかを かっている ぼくって ひまじんね。でも、にっきげいにんとしては かわないと どくしゃに もうしわけが ないので。って、どくしゃさんは こんなこと のぞんでないってか。

かんけい ないかも しれないけど、げんりしゅぎって いうのは どうも ぼくは にがてだなあ。りろんや かちが げんじつより せんこうする っていうの。ぼくは いちおうかがくしゃの はしくれの はしくれの はしくれの ひがんの はてに いる にんげんだけど にんげんの にんしきの うちでは げんじつからしか りろんは ちゅうしゅつされないと おもって しまうのです。まあ、そういう あぷりおりな もうしんや かちかんと いうのは だれしも もっていて、それは かならずしも かがくてきでは ないし、その ひつようも ない。でも、たにんから みると「あー、へんだなあ、このひと こりかたまってる なあ」と おもえるもので、ぼくも そとから みたら そう みえるからこそ、ぼくも いろいろな ひはんを うけるのでしょう。

あとで かいている「STORM萌え!」だって、げんりしゅぎてきだしね。こうぎょうてきな もの マンセー!ってね。でも、その ばからしさを いしきして いることって けっこう じゅうような こと じゃあないかな。いや、かいぎゃくではなくて ほんみの はなしね。でないと、たにんを じゅようすることが できない。って、ぼくが いっても せっとくりょくが ないけれど。じかいを こめて。

って、まともに とりあっても しかたがないねえ。あほうなぼく。 それと、「読むに堪えない」ですか、「読みづらい」ならわかるけどな。 でも、「わかちがき」が できてないのは、ぼくの ちしきぶそくなので すいません。

と、これは そぼくな しつもんなのですが、「きゅうじ」を うぇぶにっきで つかっているひとは、にちじょうせいかつでも「きゅうじ」を つかっているのでしょうかねえ。しやくしょに かく ぶんしょうや、ぎょうむじょうの ぶんしょうとか。もし 「きゅうじたい」で かかれるの だとしたら、それは ほんとうに そんけいに あたいします。 相手を理解する努力から始めませんか。というのは、うんうん、たしかに、そう、と おもいます。なかなか そうは いきませんが。

というか、ぼくの げんせつの せいひを どがいしして かんがえると げんごの もんだいでなくて しゃかいがくてきな もんだいのような きがします。

STORM萌え

いや、久々の更新(短信は頻繁に更新していますが)ですが、STORM萌えなのですよ。STORMはですね、イギリスの時計メーカーの名前。僕が大学時代に附属小学校での教育実習の厳しさで鬱になっていたときに、ふと心の拠り所を求めて寄った福岡は黒崎の雑貨屋。そこで僕はSTORMとの邂逅を遂げたのです。My First STORMはスチールの筐体に二つの小さなデジタルの丸いグラス、黒のレザーのバンド。じっと覗き込まなくては時刻が見えないその時計に僕は魅せられたのでした。その出会い以後、そのお気に入りの雑貨屋ではSTORMは置かれなくなったのですが、福岡は天神の幾つかのショップで見つけることが出来ました。プレゼント用に一つ買い、自分用に一つ買いました。その後、オークションで購入し、僕の現在五本のSTORMのオーナーです。どれもすごくお気に入りのものばかりです。

と、密かな情熱で僕のSTORM熱は燻っていたのですが、何を思ったかSTORMのオフィシャルサイトにアクセス。僕は入ってはいけない世界へ踏み込んでしまったようです。そこに掲げられている数多くの時計に僕は眩暈を覚え、ひたすらブラウジングをし続けました。それこそ、ここ一年になかったほどの情熱で。そこは甘美な幻惑の世界でございました。

個人輸入、とういうのは高校時代にメンズノンノに載っていたL.L.Beanのデイパック欲しさに拙い英語でエアメールを送った以来です。僕はわけもわからずクレジットカードのIDを打ち込みました。インターネットの世界は恐ろしい世界です。何かの間違いがあれば僕は莫大な金額を請求されます。しかもクレームをつけようと思っても相手は英語です。かないません。でもそんなことは構いはしません、一度歩んだら、引き返すことこそ恐ろしいことなのですから。

今回所望した商品はSurge Curvexという意味のわからない名前の時計と、Barcelonaというバッグです。バッグはおそらく日本には輸入されていないはず。ネットで買ったら安いですか?イギリスの£の円為替はいくらですか?そんなこと知ったこっちゃございません。あとは野となれ山となれです。でも、カード会社の手違いで現在はカードを停止されているので買えないかもしれない。まあ、そうなればそうなったでいいのです。近々東京に行き、STORMを置いているショップに行きます。そこで価格を確認してみましょう。

それにしても何故僕はSTORMが好きなのでしょうか。それは、嶽本野ばらがVivianne Westwoodを好きなのと似ているようなものなのだと思います。彼は、過剰な装飾に心魅せられたのと同様で、僕はSTORMの装飾の無さ、過剰にインダストリアルなデザインに惹かれてしまったのです。

インダストリアルなデザインとは何か。それは、アンディ・ウォーホールのようなものかも知れません。僕は、彼の芸術に詳しいわけではないですが、僕なりの理解で考えると、彼の芸術は、人間が疎外された工業社会で徹底的に疎外されてみようという試みだったのだと思います。ある意味、芸術というもののパラダイムシフトを彼は起こそうとしていたのだと思います。きっと、存在の重さというものから逃れたかったのでしょう。それは存在の耐えられない軽さを自分のものとして受け止める姿勢でしょう。

僕は、まだその哲学の境地には至っていません。もしかしたら自分が唯一無二の人間であると思うための手がかりを見つけようとしています。しかし一方で、客観的に見ると僕という人間は取替え可能な社会の一機能に過ぎないということの確かさもまた確信しています。

と何かわけのわからぬことを語ってしまいました。

STORMの手に入るショップはあまり教えたくはないのですが、この日記を読んでいてくれている読者の皆様に感謝するというかたちでひっそりと教えます。これだけまとまったSTORMの情報はおそらくネット上にも無いでしょう。しかし、ちょっと古いデータですが。

ロンドン ショップ

CARNABY SHOP 21 CARNABY STREET LONDON W1 0171-437-1882

GEES COURT SHOP 6 GEESCOURT STREET CHRISTOPHERS PLACE W1 0171-409-1727

COVENT GARDEN SHOP 30 NEAL STREET COVENT GARDEN LONDON WC2 0171-836-3088

百貨店

池袋東武 本館2F 東京都豊島区西池袋1-1-25 ベストタイムギアステーション 03-5979-6581

高島屋玉川店1F 東京都世田谷区玉川3-17-1 本館1F アクセサリー売場 03-3709-3111

丸井上野店B1F 東京都台東区上野6-15-1 ウォッチショップ 03-3833-0101

他、丸井全国各店

遠鉄百貨店 静岡県静岡市砂山町320-2 053-457-0001

名古屋松坂屋 北館5F 愛知県名古屋市中区栄3-16-1 時計売場 052-251-1111

名古屋近鉄パッセ2F

ベスト・タイムギア・ステーション 愛知県名古屋市中村区名駅1-2-2

近鉄パッセ2F 052-561-7529

京都大丸1F 京都府京都市下京区四条通高倉西入ル立売西町79 075-211-8111

大阪そごう1F 大阪府大阪市中央区心斎橋1-8-3 06-281-3111

神戸阪急 兵庫県神戸市中央区東川崎町1-7-2 078-360-7203

加古川そごう1F ミヤコ 兵庫県加古川市加古川町篠原 0794-22-2232

広島三越1F 広島県広島市中区古月町5-1 082-242-3111

福屋広島駅前店

6Fファッションウォッチ 広島県広島市南区松原町9-1 082-568-3111

近鉄松下百貨店 1Fネクタイ売場 山口県徳山市銀座2-14 0834-21-5000

(内212)

松山三越1F

ベストタイム・ギア・ステーション 愛媛県松山市1番町3-1-1 1F 089-913-7488

博多大丸東館B1F 福岡県福岡市中央区天神1-4-1 リストギャラリー 092-712-8181

福岡岩田屋Z-SIDE5F 福岡県福岡市中央区天神2-11-1 092-721-1111

福岡三越B1F

ベスト・タイムギア・ステーション 福岡県福岡市中央区天神2-1-1

B1F 092-726-7625

小倉井筒屋1F 福岡県北九州市小倉北船場町1-1 093-522-2121

鶴屋百貨店 ウイング館4F 熊本県熊本市手取本町 096-327-3923

ファッションビル

ザ・ギンザ 銀座本店 東京都中央区銀座7-8-10 03-3571-7731

ザ・ギンザ 玉川店 東京都世田谷区玉川3-17-1 南館1F 03-3709-2222

ザ・ギンザ 原宿Aゾーン 東京都渋谷区神宮前1-13-14 原宿クエスト2F 03-3470-7070

ザ・ギンザ 広尾店 東京都渋谷区広尾5-6-6 広尾プラザ1F 03-3445-0222

ザ・ギンザ 羽田店 東京都大田区羽田空港3-3-2 

西旅客ターミナルビル内ガレリア3F 03-3571-7731

ザ・ギンザ 柏店 千葉県柏市末広町1-1 柏高島屋ステーションモール4F 0471-40-2240

元町 KENT 神奈川県横浜市中区元町4-175 045-651-4152

名古屋 PARCO KENT 愛知県名古屋市中区栄3-29-1 PARCO西館5F 052-264-8364

J・ディアマンテPARCO 大阪府大阪市中央区心斎橋筋1-9 PARCO2F 06-253-0139

岐阜 KENT 岐阜県岐阜市徹明通1-15 岐阜メルサ 4F 058-266-3166

青森ビブレ 青森県青森市新町 0177-23-4311

弘前ビブレ アポロン 青森県弘前市城東北3-10-1 弘前ビブレ2F 0172-26-2230

表参道ビブレ 東京都渋谷区神宮前 03-3498-2221

横浜ビブレ 神奈川県横浜市西区南幸 045-314-2121

明石ビブレ 兵庫県明石市大久保町 078-934-2411

福岡ビブレ 福岡県福岡市天神 092-711-1021

ベスト・タイムギア・ステーション

新宿本店 東京都新宿区新宿3−17−12 03-3341-4492

ベスト・タイムギア・ステーション

EAST 東京都新宿区新宿 03-5360-8100

河原町OPA1F ナカサワNEO 京都府京都市河原町 075-255-8014

心斎橋OPA3F ガレリア 大阪府大阪市中央区 06-6258-3061

なんばカテプリ2F ガレリア 大阪府大阪市中央区 06-6633-0077

ロフト 名古屋 愛知県名古屋市中区栄3-18-1 ロフト1F 052-219-3014

ヨシムラ ロフト梅田5F 大阪府大阪市北区 06-359-1066

ヨシムラ 大阪ギャレ 大阪府大阪市北区大阪駅B1F 06-346-7557

東急ハンズ三宮 兵庫県神戸市中央区下山手通り2-10-1 078-321-6161

東急ハンズ江坂 大阪府吹田市豊津町9-40 06-338-8323

東急ハンズ広島 広島県広島市中区八丁堀16-10 082-228-3011

生活創庫 愛知県名古屋市中村区 052-451-1511

インキューブ西鉄 M3F

ファッションウォッチ 福岡県福岡市中央区天神2-11-3 092-713-1092

ブティック

エスカイヤー 東京都中央区銀座8−4−23 03-3574-7320

BAWARS 東京都世田谷区池尻1-11-6-101 03-5481-4851

MEN’S BEAT 群馬県高崎市四ツ屋町4-1-12 0273-23-8849

フジナミ・デ・プレ店 千葉県木更津市東中央2−10−1 0438-23-0689

エスプリオム 岐阜市柳ヶ瀬 058-265-2461

マダム ゴトウ 大阪府大阪市中央区城見1-4 ニューオータニ内 06-949-0750

佳王留 大阪府豊中市蛍池西町3-555 伊丹空港ビル2F 06-856-7492

エルパナリ 長崎県長崎市浜町4-7

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本日のツッコミ(全21件) [ツッコミを入れる]
# 大吉 (2002-12-14(土) 10:45)

私は、でありますが。「きゅうじたい」とひらがながき、どちらが読みにくいかは単純に一般化出来る問題ではないのではと考えてみて欲しいです。<br>私は全文ひらがな表記のほうが100倍くらい読みにくい。表音であるからひらがな一語一語追わなければ文意がまったくとれない。漢字かなまじりであれば視覚的に認識しやすい。<br>「きゅうじひょうき」は問題なく読めるので(正しく書くことは私は出来ない)読みにくいと全く思わない。こちらについては慣れと知識レベルの問題ではと思う。

# Akimbo(窪田顕範) (2002-12-14(土) 12:46)

 正字正かな表記をわざわざ「旧字旧かな」とし、またそれを用いて作成された文章表記を「旧文語体」とおっしゃっている時点で、勉強不足がアリアリで、みなさんウンザリして「間違いの指摘」等なさらなかったのではないかと拝察します。<br><br> 本日の文章にもかいてありますが、はっきりさせるためにちょっとだけ。<br><br> 文語体とは何ぞや。まさにこの段落のごとく、口語では使用されぬ文体の意であり、大多数の正字正かな派Web日記作者は口語体で日記をつづりおるものなり。諸賢ご覧のごとく、表記が略字新かなにおいても口語体と文語体を使い分けられるものなり。また「どのようなときにも正字正かなを使う正字正かな派は尊敬に値する」という主張は、それこそ「原理主義的」である。相手の行動が自分の頭の中で作成した「正字正かな原理主義」というものに合致せぬため不思議に思っているだけである。「正字正かな原理主義」なぞおらぬ。「略字新かな原理主義」ならいようが。たとえば印刷字体と手書き字体は異なって当然だったのであるが、「いかなるときにも表記はひとつ」という誤った大前提(原理主義)から印刷字体にまで手書き字体(略字)を適用してしまったのが戦後の国語改革である。つまり、相手を原理主義と面罵する側が実は原理主義であり、また文体と表記も弁別しえずして表記を切り捨てんとするは笑止。<br><br> 下手な文語体はもうよします。<br><br> まあWeb日記なんて便所の落書き(以下略)。あ、これに「すみません」と付け加えなければいけないのかな。そうすれば失礼でなくなるのかな。<br><br> 闇黒日記からリンクがはっておらず、自分の著作権が踏みにじられていると憤っていらっしゃるのもまとはずれです。引用元が表示されないチャチなブラウザをご使用なら、ちゃんとソースを見てください。<br><br> 「某闇黒日記」という表現も失礼ですよ。「闇黒日記」と書けない理由でもありますか。義務教育では礼儀は教えてくれないようですね。学校で学んだことだけでは世の中渡っていけないと知ることも重要でしょう。というか、学校でそこそこの成績とった俺が読みにくいと言っているのだからダメなのだ、という論理は幼稚だと思いますが。<br><br> あと、「言質」は、読みかただけでなく、用法もちがいます。おちかくの辞書を参照ください。

# Fumi (2002-12-14(土) 15:52)

>Akimboさん 横レスですが、「チャチなブラウザ」云々というのはなにか違うのでは? サイトを明記し引用しながらリンクしないというのは、引用元ではどういう文脈であったのか読者自身が判断することを阻害するという点で不完全な引用方法と思われますが。<br><br>また、「旧字旧かな」という表現を冠した書籍も出版されていることですし、こちらの表現のほうがむしろ一般の人間にとっては「以前用いられていた漢字やかな遣いのことなのだな」と、わかりやすいのではないかと。<br>「チャチなブラウザ」及び「正字正かな」ということばからは、正統であることだけをよしとし、大多数の一般的読者にたいしてわかりやすく…という視点が抜け落ちているように思えます。<br><br>私個人としては、旧字旧かなの文章と全てひらがなの文章、どちらも読みづらいですが、小学生でも読める点というではひらがなだけのほうが「読みやすい」と思います。現在一般的に用いられていない漢字の混ざった文章よりは。

# いずし (2002-12-14(土) 19:16)

大吉様。確かに「旧字体表記」と「平仮名表記」(と対比できる概念なのかはわかりませんが)とどちらが読みやすい・読みにくいかは簡単に一般化できないことです。確かに、僕自身この二日の日記を読みなおしたとき、たいへん読みにくい表記だなあと感じました。僕の少ないながらの「旧字体」の知識を使っても、「平仮名表記」より「旧字体表記」のほうが読みやすいのは確かです。<br>しかし、一方で「知識レベル」が問題とされるのであれば、より高い「知識レベル」を必要とされる表記は、アクセシビリティが低いのではないでしょうか。「平仮名表記」を擁護するつもりなどさらさらありませんが、少なくとも高い「知識レベル」を必要としないという意味では、アクセシビリティが高いと考えることはできないでしょうか。そもそも、アクセシビリティなどという概念は、主観的かつ相対的な概念だと云われたらそれまでですが。

# いずし (2002-12-14(土) 19:17)

Fumi様。僕のような稚拙な議論を補強して頂いて、ありがとうございます。

# いずし (2002-12-14(土) 19:18)

Akimbo様。「本日の文章」の文章というのは一体何処にあるのでしょう。すいません。<br>僕は、寡聞にして「正字正かな」という言葉を知りません。「旧字旧仮名」という言葉しか聞いたことがありません。僕にしたら「旧字旧仮名」を「正字正かな」とわざわざ云うこと自体がが、何をか示さん、って思いますが。<br>それに、僕は「正字正かな原理主義」等と云ってはいません。「旧字旧仮名原理主義」と云っているのです。引用は正確にして頂きたいものです。それとも、「きゅうじきゅうかな」という言葉をみて「正字正かな」と自動的に読ませてしまうような特殊な認知方略をお持ちなのでしょうか。それはそれで凄い盲信力。<br>しつこいようですが、「どのようなときにも正字正かなを使う正字正かな派は尊敬に値する」とは書いていないのです。「しやくしょに かく ぶんしょうや、ぎょうむじょうの ぶんしょうとか。『きゅうじたい』で かかれるの だとしたら、それは ほんとうに そんけいに あたいします」と書いたのです。そして、それは別に嘲笑しているわけではなくて、もし、本当にそうだとしたら、終始一貫した態度を示すということは凄いことだなあと驚嘆しただけです。それとも、旧字旧仮名と略字新仮名を使い分けられているのでしょうか。そして、どういうときにそれは使い分けられるのでしょうか。例えば、Web日記でだけ旧字旧仮名を使われているのでしょうか。単なる素朴な疑問です。<br>戦後の国語改革というのが、ある意味原理主義的に行われたというのは、僕は不勉強なのであまり語れませんが、そうであったのなら、それは正しいのだと思います。しかし、国語改革の是非はともかく、日本語は変わってしまいました。我々は、その変わってしまった日本語を受け止めるしかないのではないかと思っています。もちろん、それは旧字旧仮名をありがたがることを否定しはしませんが、変わってしまった日本語を「正しくない」と云わしめるその根底にあるものは「原理主義」に他ならないと考えています。<br>「引用元が表示されないチャチなブラウザ」って、IEのことですか。IEのブラウザ上ではhttp://mas0721.tdiary.net/については言及されていないように思うのですが(確かにソースを見たときは驚きましたが、ソースを見なければわからないというのもなんだかなあ…と思います)いいブラウザがあったら教えていただきたい、というか、そんな普及していないブラウザが存在して、それにしか対応していない記述なのであれば、それはそれで不親切な記述だなあと思います。<br>僕が「某闇黒日記」と書いたのは、リンクをしないで読者に対して一方的に僕が論われたと感じた嫌悪感の表明です。Web上での議論の仕方について一般的なスタンダードは無いとは思いますが、ハイパーリンクという特殊な機能に立脚した媒体上で議論するならば、相手先にリンクを張るというのが最低限の礼儀だし、読者に対する責任だと思います。そうでなければ、本当にトイレの落書きになってしまう。この主張は間違っているでしょうか。<br>それに、「学校でそこそこの成績とった俺が読みにくいと言っているのだからダメなのだ」などとは云っていません。「ぼくは ぎむきょういくは それなりの せいせきで おえたのですが、それでも よめないのは、ぼくの あたまが わるいのか、(以下略)」と書いたのです。本当に引用は正確にしてください。これで、僕の語っていないことまで語っているように見えるではないですか。僕は、旧字表記の是非については論じていません。ただ、少なくとも僕にとって旧字表記が読みにくく、それは義務教育で旧字表記を学習しないのだから、僕のこの「読みにくい」という感覚はコンセンサスが得られるのではないかと思ったのです。もちろん、ここで義務教育の内容の是非を論じる気もありません。この主張は稚拙でしょうか。そして、「旧字表記」のほうが一般的に読みやすいと主張されるのでしょうか。<br>あと、「言質」は確かに用法が間違ってました。意味のわからない熟語を使うとは駄目ですね。気をつけます。

# いずし (2002-12-14(土) 19:27)

ふう、疲れた…。

# 野嵜健秀 (2002-12-14(土) 21:39)

ええと、誤解があるやうですね。私は「讀み易さ」について何も言つてをりません。「意味の取り易さ」と申してをります。<br><br>それから、コンセンサスをとる、とは何でせうか。みんなで「さうだねさうだね君の言ふ通りだね」と言ひ合ふ事でせうか。それで話を濟ませてゐれば良いと言ふのなら、世の中、言論と云ふものは要らなくなる譯です。<br><br>一應、國語國字問題については、或程度、資料を用意してをりますので、讀んでやつていただければ幸ひです。<br>http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/<br>http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/rekishi/

# 素光@憂鬱な昨日に猫キック(略) (2002-12-14(土) 21:44)

国立大学除籍といった知識レベルである私個人的には、全文ひらがなの文章と全文旧字旧仮名の文章、どちらも同じくらいに読みにくく感じます。<br>しかし好き嫌いを言えば、全文ひらがなのほうが好きです。漢字変換機能がいかれちゃったのかな?ぐらいの違和感しか感じないせいかもしれません。<br><br>個人じゃなくて閲覧者全体を考えた場合には、既にFumiさんが仰ってますが「小学生でも読める点」でひらがなのほうが上だろうと思います。<br>でもその場合には、同音異義語を注意深く避けたり、小学生が理解できる単語や言い回しを同時に用いるべきなのかも知れませんね。いろいろ考え出すと奥が深くて面白いお話だと思いました。<br><br>ついでですが、「正字正仮名(かな)」と「旧字旧仮名(かな)」、それぞれの語句の普及度合いをgoogleで調べてみました。<br>あくまでも1つの方法で調べた普及度合いに過ぎず、どちらが正しいかという切り口ではありませんが以下の通りでした↓<br><br>「正字正仮名」:約223件 + 「正字正かな」:約870件<br>「旧字旧仮名」:約1150件 + 「旧字旧かな」:約326件

# 野嵜健秀 (2002-12-14(土) 22:00)

「何が正しい事であるのか」は、「その時點でどれだけ一般的であるのか」とは無關係です。<br><br>私は、量よりも質を問題にしたいと思ひます。單に、今使つてゐるものを捨てるのは嫌だ、と云ふ感情論で話はしたくないと思ひます。

# いずし (2002-12-14(土) 22:40)

野嵜健秀様。書き込みありがとうございます。そもそも、その表記が読めなければ、意味の取り易さを云々しても仕方が無いような気がします。<br>「コンセンサスを得る」ということですが、僕一人の主観的事実にある例を加えると、読者の人の合意が得られるというか、そうだなあと納得して貰えると思ったからです。主張を正当化する一つの手段です。読者に対してコンセンサスを得られない言説は言説として価値が低いのではないかな(単純すぎますか?)と考えています。それはことの正否とは関係のないレベルの話です。何が正しいか、何が間違っているか、ということは個人の感覚に還元されます。例えば、ラテン語を使うのが正当である、なんて言っても相手にされないでしょう。そもそも、相手にされなくても良い、正しいことは正しいのだと主張するのも個人の趣味の問題ですが。

# いずし (2002-12-14(土) 22:43)

素光さん。どうもです。某私立大学後期博士課程除籍予定(笑)の知識レベルの僕もやっぱりどっちも読みにくいと思います。確かに、ひらがなで書くときは同音多義語に注意しなければなりませんね。

# いずし (2002-12-14(土) 22:46)

http://mas0721.tdiary.net/20021213.html#c11<br>の発言はちょっと論理的じゃあなかったかな。<br>ラテン語を使うか使わないかは個人の趣味だけど、ラテン語を使うべきであると云われたら、ちょっとなあって思うということです。

# 野嵜健秀 (2002-12-14(土) 23:09)

表記が全く讀めなければもちろん、コミュニケーション自體がとれません。しかしながら、正字正かなの文章を、讀み難いと言ひながら、いずしさんはちやんと讀んで、理解なさつてゐるのではないですか。(さうでなかったら、いずしさんは私の文章を讀まないで貶してゐると云ふ事になりますから、私は怒りますよ)しかしながら、いずしさんは實際に私の文章を讀めてしまつて、意味もちやんと分かつて、それで反論していらつしやるのです。ならば、「その表記が読めなければ」と云ふ假定は無意味ではないかと存じます。<br><br>また、正しいか正しくないかは相對的ですが、言語學なり國語學なりが學問として成立してゐる以上、或程度、理性に基いた客觀的な議論が可能である筈で、その議論の結果としての物事の正邪はそれなりに普遍的な價値として誰もが認めざるを得ないものとなるのではないですか。<br><br>ラテン語を現代人が使はうとするのは、たしかにナンセンスです。しかし、ラテン語が一般的な教養であつた時代に比べて、現代のヨーロッパはヨーロッパとしての精神的な統一性を失つてゐる、と、クリストファ・ドーソンをはじめ、多くの歴史學者・思想家が指摘してゐます。

# 野嵜健秀 (2002-12-14(土) 23:19)

ラテン語は所詮、海の向うの言葉で、日本人には餘り關係がありません。ただ、ラテン語の教養に關するヨーロッパ人の考へ方は參考になると思ひます。<br>日本では戰後、國語國字改革が行はれました。國家權力が表記の變更を強行した譯です。その結果、昭和20年以前とそれ以降とで歴史が分斷されました。現代の日本人は、過去の日本人の書いた文章を「讀めません」。また、口語と文章語とが密着するやうになつて、却つて日本語の統一は崩潰したと言へます。<br>今、日本人は、「現代仮名遣い」「常用漢字」を使つてゐますが、そもそも「日本人」の統一、日本の文化そのものが失はれてしまつたと言へるでせう。それは良くない事だと私は思ひますが、恐らくいずしさんはどうでも良い事だと御思ひになるでせう。

# いずし (2002-12-14(土) 23:46)

野嵜健秀様。実際貴方の日記は読みにくいし(失礼、)、それゆえに意味が取りにくくてわからない部分があります。だから、僕の議論が的外れであったり、そもそも意味がわからないから論述できない部分が出てきます。貴方は「略字新仮名」は使われないと思いますので、「解らない」と云わないでいるのですが。ちゃんと理解してちゃんと読んでいるなんてことは論理的にありえません。貴方の文章をちゃんと理解してちゃんと読んでいるのなら納得できると思うからです。だから僕は、意味も解らず批判している可能性があります。それが、貶めていると思われれば怒って頂いて結構です。だから、「その表記が読めなければ」という仮定のもと、文章の意味を誤解する可能性というのは、今現在の議論のなかでも十分にあり得ます。<br><br>僕は、学問を論じるほど賢くは無いですが私見を述べます。学問というのは今此処にある事象から論理性を導くものであって、先に論理が先行するものでは無いはずです。「理性に基いた客觀的な議論」というのは非常に限定されフィールドでしか有効でなくて、なおかつ限定されたパラダイムの中でしか可能ではありません。特に人文・社会科学ではその傾向は大きいと思います。故に、「物事の正邪はそれなりに普遍的な價値として誰もが認めざるを得ないものとなる」とは必ずしも云えないと思います。学問とは云え、所詮人間がやっている営みの一部ですから。そして、学問をしている人間は以上のような事柄を受け止めているとするならば、物事の正邪のことなどきっと恥ずかしながらしか語れないのではないか、と学者と呼ばれる人に対しては、そういうような人たちであってほしいと希望を僕は持っています。<br><br>「今、日本人は、『現代仮名遣い』『常用漢字』を使つてゐますが、そもそも『日本人』の統一、日本の文化そのものが失はれてしまつたと言へるでせう」とのこと。その程度で日本人の統一、日本の文化が失われてしまうとお考えなら、日本人と日本の文化とは底の浅いものとお考えなのだなあと思います。もっとも僕は、根拠はありませんが、日本人の統一はともかくとして、日本の文化は決して失われてはいないと思います。そもそも、文化というのは失う・失わないというレベルの問題でないと思っているので。<br><br>日本の文化の話をすれば、僕はどうでも良いとは思ってません(日本人という概念はあまりわからないので、どうでもいいのかも知れませんが)。もっと義務教育では日本の古典や思想(宗教も含まれてしまいますが)を積極的に教えて欲しいと思っています。ゆえに、旧字旧仮名も読めるにこしたことは無いとは思っているし、読みづらいと感じる僕は教養不足なのだなあとも思っています。

# ペトロニウス (2002-12-15(日) 00:45)

始めまして。熱い議論が戦はされてゐますね。<br>先づ、かな文なら小学生でも読めると云ふ点は、文字を追ふ事は出来ても、語句が理解できなければ言語として意味が通じませんから、証明としては成立ちません。<br>学問については、教はる事は資料と教官がゐればいいのですが、何かを探究する場合は殆どの場合其れ迄の蓄積された文献に寄らなければなりません。又、実験などを重ねて証明する場合もあるでせう。其の結果として「この場合はかうである」とする事ができます。ですが、略字現かなの場合は、規則在りきで事が進んでしまつたから、教はる学問でしかありません。<br>文化については、日本の場合は、弥生時代から現在まで輸入で発展して来たと認識するべきでせう。言語も習俗も技術も其の殆どが輸入で賄はれてゐるのが日本の文化の実態です。其処の処を確りと辨へておいたはうが宜しいかと存じます。何でもかんでも輸入するのは宜しくないので、輸入する物事の善し悪しを確りと辨別して必要な物事のみを受入れられればいいんですが、中々上手く行かないのは事件報道等で周知の事実です。

# 野嵜健秀 (2002-12-15(日) 01:01)

私の部屋に、日本の傳統的なものが幾つあるのか眺めて數へようとしてみたのですが、一つもないですねえ。そこいらの御家庭にも、案外日本的なるものは無かつたりするのではないかと思ひます。<br><br>我々の持つ日本的なものの最後の一つが日本語なのであり、それも戰後の國語國字改革で改變されてしまつてゐるのであります。改變される前の表記を、「讀み難い」と言つて非難するのは言論の自由ですが、讀み難く思ふ現在の自分が幸福であるのか不幸であるのかは、一度よくよく考へてみるべき問題だと思ひます。別に、正字正かなを使へばどうにかなる、と云ふ事ではないですから、強要なんぞ、全然しません。どちらかと言ふと、正字正かな派になるのは不幸になる事に近いやうな氣がしますしねえ。世間樣から迫害されますしねえ。

# いずし (2002-12-15(日) 02:29)

ペトロニウス様。初めまして。「文字を追ふ事は出来ても、語句が理解できなければ言語として意味が通じません」というのは、そうだと思います。しかし一方で、まず、文字を追うことが出来ることが、語句を理解することの前提となる場合が多いと思います。<br>「略字現かな」の成り立ちを僕は知らないし、略字現かなの地平にアプリオリに立っているので、それを省みることは今まで無かったです。「規則在りきで事が進んでしまつた」のであれば、当時僕がいたら、かなわんなあって思っていたと思います。でも、それはもしもの話です。<br>文化についての基本的な認識は同意します。日本の文化は輸入で発展しました。しかし、「何でもかんでも輸入するのは宜しくない」とは思いません。何でもかんでも輸入してあとは野となれ山となれです。日本の文化はそれくらいで崩れはしません。日本の文化をもっと信頼しましょう。というのは楽観主義に過ぎるでしょうか。

# いずし (2002-12-15(日) 03:01)

野嵜健秀様。日本的の伝統的なものという概念定義の違いがあるかも知れませんが。僕の部屋には、障子があります。襖がありす。座布団もあります。和布団もあります。畳もあるし。また、日本酒と緑茶は欠かしたことがないです。そして、こうやって日記を書くというか、日記を一つの芸とすることは日本の文学の伝統であるように思います。短歌集もあります。短歌も書きます。<br>電化製品も、日本製のものが多いです(工場は海外かも知れないけど)。これは日本の工業技術のすばらしさを示しています。それも文化でしょう。テレビ、パソコン、携帯電話、ビデオデッキ。全て日本の誇るべき文化だと思います(でも最近負けが込んでいるようですが)。<br>旧字旧仮名遣いを読み辛いと感じることは確かに不幸なことだと思います。そのおかげで、過去のテキストを読めないことは凄く残念だし、勿体無いことだと思います。本当に勿体無い。しかし、読み辛い。現代語訳がないと古典を読めない。<br>先のつっこみに「口語と文章語とが密着するやうになつて」とありましたが、僕は必ずしもそうではないと思います。僕は普段は方言でしゃべります。しかし、方言で書くことは滅多にありません。いわゆる標準語なる言葉をしゃべっている人であれば、口語と文章語が密着しているのかもしれませんが、必ずしも標準語でしゃべっている人が多いといえない限り、やはり密着はしていないのだと思います。

# Akimbo(窪田顕範) (2002-12-15(日) 07:19)

 こんにちは。<br> ということですが、野嵜さんの記述なさっているソースを引用してみます。<br> "cite="のところにURLがみえますね。これをブラウザのURL欄(IE6.0ならば「アドレス(D)」とラベルのある欄)にペーストし、「移動」ボタンを押せば、当日記の12月08日の記述にジャンプできます。「読者自身が判断できない」ということはまったくありません。もちろん、"cite="の部分にURLがあった場合、そこにジャンプをする機能があればありがたいわけで、それがないのは「チャチなブラウザ」である、ということです。<br> たとえ話になります。ダウン症(21トリソミー)という遺伝子障害を御存知ですか? これは昔、欧米で「蒙古白痴」と呼ばれていました。現在も白人(コーカソイド)にはそう呼ばれているのではないかな。しかし(詳細は省きますが)これは「まるでモンゴロイドのような白痴になる」という人種差別からきた命名です(思いだしましたが、「蒙古」も、支那人がモンゴル人に対して「暗い、古い」という意味あいがを込めてつけた用語ですね)。「だから、『ダウン症』あるいは『21トリソミー』と呼ぼう」という人に対し、「別に差別的感情ではなくて、『蒙古白痴』の方が通りがいい。その名を冠した書籍もあることだし」という人々もいるのでしょう。<br> 現実問題として、10年ほど前に英会話の先生(WASP女性のとてもよい人でした)から「『蒙古白痴』とは蒙古人(って我々ですよ)のようになることよ」と感情たっぷりに言われて仰天したことがあります。誤った名前が誤った認識を再生産しているわけです。名を正すことは重要であると思います。「そちらの方が通りがよいから使用する」場合もあるでしょうが、その時には、もっと的確な呼称があることを認識しておくべきです。たとえ話おわり。<br> 「旧字旧かな」という呼称は、「現在も使用している人が多数いること」から誤りです。「きかんしゃやえもん」(自体は略字新かなで出版されましたが)の作者、阿川弘之さんはその代表格で、毎月、雑誌「文藝春秋」の巻頭エッセイを書いています。また、中国では御存知のように簡体字(中国式略字)を使用していますが、台湾では繁体字(正字)を使用しています。「台湾では旧字を使っている」と言うと、現行通用している文字を「蒙古」呼ばわりしていることになり、大変失礼になりませんか。わたしは、現在日本で通用している漢字が、実は日本式略字だった、という点で、「略字新かな」、あるいは「略字現代かな」という呼称が適当であると考えます。もちろん、それを知った上で、通称である「旧字旧かな」という呼称を使いたいのであれば、どうぞ。べつに止めはいたしません。「不勉強だな」と思うだけです。つまり、最初の結論から変わっていません。<br> 「大多数の一般的読者にたいしてわかりやすく」あれば、誤っていてもいいとは思えないだけです。わたしが、「正統であることだけをよしとする」人間でないのは、わたしの用字を見ていただければわかると思います。わたしは、「現代日本で通用している」略字新かなを使用しています。こちらの方が通りがいいからです。正字正かなは使用していません。<br> しかし、わたしが現在使っている表記を「わたしが現在使っている」という理由だけで「正統」とし、いまだ使用している人のいる表記を「旧」よばわりする傲慢さをわたしはもちあわせていません(あわてて追加すると、もちろんご覧のように、別の傲慢さはもちあわせています)。<br> おとなり韓国は「ハングル原理主義」です。中国の影響をうけた(=漢語が多数流入している)文化であるため、漢字ハングル混じり文の方が読みやすいはずですが、「全ての人に読める文字を、わが国独自の文字を」という理由で、ハングルのみの表記が推進されました。現在では漢字はほとんど駆逐されてしまったのではないかな。そのため、いずしさんがお書きになったような「カナのみ」の読みづらい文章(いずしさんは用語に対して鈍感であるため、漢字まじりでもなかなか意味のとりづらい文章をお書きになりますが)と同じような文章だらけになり、文化的に損をしています。ひらがなだけのほうが「読みやすい」というのは、誤りです。日本でも、「漢字制限」→「さらに漢字制限」→「かなのみでの日本語表記」と移行する目的で国語改革は行われたわけですが、それが途中で止まったことは、不幸中の幸いでした。

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