2002-12-08(日) どくはく/にほんじんとにっぽんじん [長年日記]

どくはく

やふおくでふらんすぐん の ぴーこーと を にゅうさつ しようと がんばったけど とうしょ の にまんえん の もくひょう らくさつ きんがく から いちまんえん おーばー して それいじょう に あいて が せって くる もの だから あきらめた。あきらめ て よかった のか わるかった のか。でも あと すうまん だしたら ぶらんどもの の こーと が かえるよ とか そんな に こうか な もので は ない だろう とか すっぱい ぶどう の ほうそく。どうせ この こーと を かうん なら と おなじ しゅっぴんしゃ の おなじ くふらんすぐんのすぇっと を にゅうさつ してて、それも せって しまって たかね で らくさつ して しまった。こーと の ついで に ほしかった のに それだけ しか らくさつ できない なんて…うつ …。どこ の もの かも わからない すぇっと を ななせんごひゃくえん で かう ぼくって なさけない なあ…。

と、やふおく に こっている んですが、でんどう はぶらし も しぇーばー も やふおく で かおうかな なんて おもって ます。でも でんどう はぶらしは かかく どっとこむ に でて ない ので そうば が わからない のだ、しくしく。

いや、ぶつよく の ごんげ ですな。ぼく を こうやって ぶつよく に かりたてたり しょくよく に かりたてたり するもの は、けっこう あでぃくしょん みたい な かんじ で おだやか じゃあ ない なあ と おもいつつ。にんげん と いうもの は つね に なにか に あでぃくと しない と いきて いけない の では ないか という ていねん も ある。ひと には かならず ろんりてき でも きゃっかんてき でも りんりてき でも ない ちへい に あぷりおり に たって いる のだ。しかし、それ に いなおって は いけない と いう おもい も ある。

あんびばれんす は せいしゅん の とっけん かと おもって いた けど そう では ない みたい。いい とし の ぼく でも あんびばれんす に さいなまれて いるの だなあ。

そして、ぼく が いまだに その あんびばれんす に さいなまれて いる ゆえに、ぼく は ひとに たいして そのば かぎり の たいおう を とって しまって いろんな ひと に めいわく を かけて いる。

その めいわく を かけて いること、その みにくさ に いても たっても いられなく なって、なにがしか の こと を いう ひと が いる。ちょくせつ いって くれた ら いいのに そういう こと は たいてい かんせつてき。かんせつてき に いう のなら、あるい は あん に してき している の なら、すくなく とも ほんにん の みみ に はいらない よう に する と いう くらい の はいりょ は ほしい なあ。とは いえ、そういう はいりょ を した ところ で そういう もの は けっきょく ほんにん の みみ に はいる もの。という の が これ も また よのなか の しくみ。すくなく とも じぶん は その ような こと は できるだけ しない で おこう と きも に めいじて。

けっきょく そう なる の なら、ちょくせつ ほんにん に いえば いいのに ね。その ほう が すっきり する。と いうか、かんせつてき に つたえる こと で ぼく が はんろん と いうか いいわけ を する きかい を あたえ ない と いう もくてき が あるの かな。もしくは ぼく と おなじ ふぃーるど に たつ こと が いや なの かな、こんな やつ と おなじ どひょう で たたかう までも ない だき すべき そんざい だ と いうこと で。でも だき すべき そんざい なの ならば はな から あいて に して くれなくても よいのに。

と、こんな こと を うだうだ かんがえて いる なんて ちょっと ひがい もうそう じみて いる かな。そういう ぼく に とっては りふじん に おもえる しゃかい で あっても、それ を かえる こと が じぶん に できない なら、うだうだ いわず に それ を うけいれ て、ぎゃく に りよう して こうどう した ほう が せいさんてき だ。

さいきん、かわならけれ ば いけない と いう きょうはく かんねん に かられて いる。げんじょう を れいせい に はんだん し、つぎ に うつ て を しんちょう に かんがえて だいたん に こうどう する。「でも」それ は そう かんたん に いかない。みつご の たましい ひゃく まで と いう こと か。

「でも」と いう ことば を あどらー しんりがく では みとめて くれ ない。けっきょく「でも」と いう こと を いいわけ に して、あんもくり の じぶん の もくてき、たとえば あしぶみ する、まよう、ていたい する、を じゅようして いる と いうわけ だ。だから、「でも」とか「しかし」とか いうことば を じぶん の こうどう せんたく に おいて あまり つかわない ほう が よい。つかう こと は せきにん かいひ だ と、あどらー しんりがく って けっこう つめたい なあ。

ひと は かわって くれない。かわれる と すれば じぶん だけ で ある。かわれ ない じぶん に あいそう を つかされた こと は たたあった。「あなた の かわり に すぺあ なんて いくら でも いる のよ(いやく)」とか「いま の まま の あなた では とうてい やって いけ ない」だとか。けっこう きびしい なあ。

あなた の おもう ように ならな ければ、ぼくは おはらいばこ です か。ぼく は あなた が ぼく の おもう よう に ならなくて も おはらいばこに なんて しま せん。と おもって いながら、かこ の こと を かんがえる と ずいぶん おはらいばこ に してきた から いんがおうほう と いった ところ か。

ぼく の げんせつ は ある いみ うそ で ある。ふくすう の むじゅん した げんせつ を そのば そのば に よって つかい わけて いる。もっとも そんな こと を いしきてき に やって いる つもり は なく て、ほか の ひと に してき されて はじめて きづく と いうか、きづかなくても してき されたから それは ほんとう なんだろうな と あきらめて しまう。

むかし から ぼく は きおくりょく が ないん だよね。びょうき、と いってしまう と それまで。きのう ひと に いってた こと が おもい だせない。やくそく が まもれ ない。しゃかいじん と して さいていげん の まなー って やつ なのに ね。でも わすれて しまう のだから しかたがない と ひらきなおった ところで、あなた が わすれて しまう なんて どうせ その こと を じゅうよう に おもって いないん でしょう と いわれ て、それ は ずいぶん と つらい。

ぼく は じっさい に しんり てすと を うけて、きおく に かんする へんさち は ひょうじゅん いか で あった。ああ、やっぱり と なっとく した。まあ、しんり てすと の だとうせい なんて ぼく には わからない けど、いちおう びょういん でも つかわれる かなり ひょうじゅんか されて いる てすと だ。でも、てすと けっか がそうだから と いって ぼく は なんだか の びょうき でも なく て、たんに すこし きおく が よわい だけ。

ああ、その てすと で わかった ことは ぼく の にんち のうりょく は きょくたん な ぷろふぃーる を しめして いる らしい と いうこと。きおく は さいあだが、がいねん に ついて の そうさ は ずばぬけて いる よう だ。しかし、これ は よろこばしい こと では なくて、へいきん てき な ほう が じっせいかつ を えんかつ に おくれる ことは たしか。ある のうりょく が かじょう だったり ひんこん だったり すると、へいきんてき な ひと が みている せかい とは ちがう せかい が みえて いる と おもう のだ。それ は それ で いたい。

なに が いいたい のか わからなく なって きました。べつ に おさけ を のんでいる わけでは ない(ゆうしょく ご ちょっと だけ のんだ けど)。ただ つらつら と かきたかった だけだ。

にほんじんとにっぽんじん

あなた は「にほんじん」ですか「にっぽんじん」ですか。ぼく は「にっぽんじん」です。なんとなく「ぽん」という ことばの ひびきが すきです。

ぼくは「ちゅうごく」だとか「かんこく」だとか「ちょうせん」という ことばづかいが すきでなくて、げんちの ことばで よんだら いいんじゃないかな とおもっています。「かんこく」は「こりあ」か。「こりあ」も えいごよみ なのかな。「さうすこりあ」って えいごとちゃんぽんで きらいだ。でも、かんこくや ちょうせんの ようじんを よぶときに「きむ・じょんいる」とか げんちの ことばに にせてよむことは いいことだとおもう。でも、ちゅうごくの ようじんは いまだに にほんよみ なのかな。

ということを はなしするのは、にほんのことを「じゃぱん」とか「やぽん」とかいわれると ちょっとなあとおもう。「あーゆーじゃぱにーず?」。「のーあいむにっぽんじん」ってかんじです。

でも、にほんでも がいこくの なまえを よぶときは いいかげんか。でも いちおう げんちの ことばで よぶような ほうこうせいが あると おもうのだが。かたかな つかったり。

ぼくは にっぽんがすきだ。これが なしょなりずむなのか わからないが。にほんのぶんかと せいようのぶんかが ほどよくみっくすされていて そして それからどくじの あたらしいぶんかが さいせいされている。にっぽんの さいげんなき せちゅうしゅぎが だいすきだ。

でも、にっぽんの たいせいは きらいだ。こくさいせいじの きびを ぼくは ぜんぜん しらないけれども、かくはいぜつの うんどうにたいして あめりかのめをきにして はっきりといえないのは ひばくこくとして さいていだとおもうし、こくみんはそれで なっとくしているのか。もっと きゅうだんしても いいんじゃないかと おもう。ぼくは にほんを あいしている。だからに ほんのたいせいも ほこれるべき はしら というものがほしい。というような きゅうしんてきな しこうと いうのが ふぁしずむの げんせんに なるのだろうか。それだったら ぼくは げんせいふに まかせて、ぶんかに おける なしょなりずむに けいとうしたい。だから せんきょなんていかない。

きたちょうせんの らちじけんの もんだいだってねえ。きょうの あさひしんぶんの のさかあきゆきの ひょうろんをよんだら、うんうんと うなづけることがあって。にほんは ちょうせんはんとうの ひとたちを たいりょうに らちかんきんして きょうせいろうどう させて それでいて いっぱいころして、ほしょうの もんだいはかいけつしたと している。こくないに おおくの ざいにちちょうせんじんを かかえてだ。これも あるいみら ちじけんですよね。それを にほんはずっとあいまいに してきたわけだから きたちょうせんと どっこいどっこいのような きがするのは ぼくだけですか。あのときは せいとうなせいふじゃなかったし せんじたいせいだった といういいわけはできません。だって、きたちょうせんはまだせんじちゅうですから(にほんとは せんじかにはないけれど)。

もちろん、きたちょうせんの らちというもんだいは とんでもないことで ゆるしがたいことです。でも にほんがおこなってきたことも すこしばかりこうりょにいれてほしいのです。それと、らちにほんじんのひとは ほんとうに にほんにとどまりたいのでしょうか(ついき、とどまりたいそうです)、いちじきこくして かぞくのかおを みたいのでは ないのでしょうか、そればかりは よそくのいきをこえないのですが、かぞくの しんじょうは わかるとはいえ、ほんにんは せんのうされているので とうじしゃのうりょくがない として、かぞくが いっぽうてきに ほんにんを かえさない というのも いかがなものかと もおもいます。

やっぱり やくそくしてるんだったら かえすべき。かえさないのなら さいしょからやくそくなんて するべきじゃなかった。どういうじょうきょうであれ、くにとくにとのかんけいは やくそくの りこう に もとづく しんようから なりたっているわけで、やくそくが つうじないのであれば しんようされないのは あたりまえ。

きたちょうせんの おかれているじょうきょうは かなりきびしいものが あります。それを ことじち に にほんの しゅちょうを のませるのも なんだか もんだいが あるような きもします。

いっぽうで、きたちょうせんも しえんを うけるのなら うけるで それなりの たいど というものが あるとは おもうのですが、それも あまり みられませんね。にほんは えんじょを すべきだなんて こといわれても。

それにしても いらくの もんだいは どうなのでしょうか。たいりょうはかいへいきを もっていたら だめなのでしょうか。もってたらだめだから せんそうなんでしょうか。ふせいんせいけんは たみんぞくを だんあつするから だめなのでしょうか。でも なんであめりかが せんそうをしかけるのでしょうか。なにか おおきなこくえきがからんでいるのでしょうか。くにというものは こくえきにそってうごくということはあたりまえのことなのですが、せんそうにおいては じこくのあんぜんほしょうが まもられなくなったときにおこなうべきで、りえきのために おこなうべきではないような きがします。

ろしあだって ふらんすだって いぎりすだって はんせいふのせいりょくをだんあつしているではないですか。どくりつしたい ひとたちは どくりつさせたらいいではないですか。ことはそうかんたんではないですか。とりあえず きのさきは かにおうこく として どくりつされても こまるけど。

ぐんじゅさんぎょうが うるおうためには ていきてきに せんそうしなければ いけないということなのでしょうか。なんのために たがくのしきんを とうじて せんそうをおこすのか りかいにくるしみます。

にほんも なぜ あめりかの せんそうに かたんするのでしょう。いーじすかんを はけんしたり。にほんは ゆいいつの へいわけんぽうをもった せかいへいわをめざすこっかではないのですか。これは にほんのほこるべきことです。ぼくが にほんというたいせいに ほこりがもてるとしたら このいってんです。これでは ちゅうがっこうで ならった しゃかいかは まるっきり まとはずれとしか いいようがありません。

てんのうせいについて いろいろないけんが あるとおもいます。ぼくは それらのげんせつとは まったくちがうかんがえを もっています。こうしつの ひとびとに われわれの ような きほんてきな じんけんが あたえられて いるのでしょうか。こうぞくに うまれて つらいおもいを しているひとも いるように おもいます。いく がっこう だって せいげん されるし、えらべる せんこう だって じゆうに できない。いやでも げいじゅつかんしょう や すぽーつ を せんならん。じっしつてきなめんからすれば こうぞくのひとが がいこうで ゆうのうな しゃこうりょくを はっきできなければ にほんのこくえきを そこねます。でも こうぞくには すぺあはいません。せっしょうのせいどは まだあるのでしょうか。ここで、にほんが しゅしょうせいでなくて だいとうりょうせいなのなら、しゃこうのうりょくがなくて こくえきをそこなうようで あればそっこくく だいとうりょうを くびにできます。

なんか、いろいろと どくついたことばかり かいて しまいました。ちょっと がすぬき みたいなものですが。べつの すとれすを べつの はけぐちに だすなんて ほめられた こういでは ないですね。そこらへんは はんせい。

きょうの にっきは よみにくくて ごめんなさい。ひらがなで かいてみたく なったのです。よみにくいでしょう。これとおなじく きゅうぶんごたいで かかれているさいとも よみにくいことこのうえなし。ゆーざーの あくせしびりてぃというのは まったくかんがえないのでしょうか。ぼくは いちおうかんがえているつもりで、いつもびくびくして ぶんしょうをかいています。それもひくつかな。

ではでは。

えーでぃーえすえる

うちの おじきの ところが えーでぃーえすえるに なったらしくて あいえすでぃーえぬの るーたーを やふおくに だしてくれないかと おやじが うけとった。はなしを きくと、あいえすでぃーえぬに するのに ぜんぶで ろくまんえん くらい とうしした とのこと。ああ、おくないこうじも ぜんぶ まかせて しまったのだな。もったいない。ぼくに いってくれれば あさめしまえなのだけど。

と、るーたーを おーくしょんに だそうということだが、もう あいえすでぃーえぬの るーたーなんて なげうりもいいとこ。さんぜんえんにも ならないんじゃないか。それくらいだったら まだもでむでつなげているひとに ゆずってあげたほうが よっぽど ゆうえきなのじゃないかと おもったりする。というぼくも あいえすでぃーえぬの てぃーえーを ふたつも あまらせている。うっても おかねにならないし、ちいきのひとにゆずろうか。こうみんかんにでも「あげます」というちらしをけいじして。というか、このにっきをみているひとで ほしいひとはあげます。

と、おじきのところに えーでぃーえすえるが つうじるのなら もしかして もしかしたらと いちるののぞみを かけて いちいちろくに でんわ。「おきゃくさまの おでんわばんごうでは えーでぃーえすえるは できません」とのこと。「ひかりしゅうようを めたるか してください」とまえにも いったような せりふ。「じゃあ たんとうのものに でんわさせます」とでんわまち。きっと「できないですねぇ」っていわれるんだろうな。そしてまた へこむんだろうな。あーあ。

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# (2002-12-09(月) 00:57)

くーはく を いれてくれると だいぶ ちがう と おもいます。かしこ。 

# yukatti@香雪 (2002-12-09(月) 03:15)

五人の方に関して、こんな記事がありました。報道ももちろん鵜呑みに出来ないけれど。<br>読売新聞「検証・拉致被害者5人「永住」の決断 日本に帰国した北朝鮮による拉致事件の被害者5人は、政府が「永住」方針を発表する前に、自らの意思で日本に残ると伝えていたことが30日、関係者の証言で明らかになった。」<br>http://www.yomiuri.co.jp/rachi/ra20021201_01.htm<br><br>#わたし個人は、本人が日本に残ることを選択したんだから「約束したんだからいったん帰れ」なんてことを強制しなかった国の選択は当然で正しいことやったと思ってます。もしもほんとにこれ約束してんたんなら間違った約束だったんでは、と。

# いずし (2002-12-09(月) 06:56)

yukattiさま。どうもです。<br>たしかに現在、被害者の五人は日本での永住を決定しているということに間違いはないと思います。五人が日本永住の意思があるのなら、それを尊重するのが政府のすべきことでしょう。<br>とはいえ、国と国との信頼関係の観点からすると、約束を破った日本政府は糾弾されてもしかたないし、破ったことに居直ることはできないと思います。僕は、本来はもっとことを急がずにゆっくりと永住の道を探ったほうがよかったのではないかと思います。<br>しかし、ニュースを読んで中山参与の「本人の意思はまだ申し上げられません」とありますが、何故本人の意思でなくて政府の意思で返さないということにしなければならなかったのかわからないし、また、「薫が北朝鮮に戻る意思が強いと」との記述からは必ずしも永住の決定がなされたときに五人全員の意思が確認されたとは言えないのではないかと思いました。

# yukatti@香雪 (2002-12-09(月) 11:14)

うん、確認されたかどうかとは言えないですね。<br>でも、このごろ週刊誌などにぽちぽちと、ご家族の方の手記とか乗り始めていて、書けない・伝えられないことが現時点ではあまりにも多すぎるんだなあと、とりあえずそのことを思い知らされる感じです。で、だから、新聞やテレビで報道されてることだけであれこれ考えてもなんかちょっと違う方向に行っちゃうような気がしてます…わたしはね。あさひしんぶんと、さんけいしんぶん(両極端だな^^;)でも同じニュースでもあまりにもちがうようにうけとれてしまいますし。あさひの筑紫さんのコメント読みましたが、まさしく読者側のメディアリテラシーを問われてるかんじだなあ。。

# いずし (2002-12-09(月) 11:48)

確かに僕は朝日新聞の見出しくらいしか見ていないし、あとはNHKのニュースくらいしか知らないので、節穴から覗いているようなものかもしれません。きっと偏っているんだろうなあ。それなら書くなよ!って感じですが、それでも書いてしまうところが日記芸人の性といいますか。<br>僕としては、なぜいま書けないのか、伝えられないのか、ということに興味があります。そこに本質があるのではないかと。見えない集団力学が働いているのではないかと。

# いずし (2002-12-09(月) 11:49)

声さま。くーはく を いれて みました。これ で すこし は みやすく なった の かしら。

# 義珍 (2002-12-14(土) 06:20)

英語の"Korea"は、「高麗」(読みは「コリョ」。日本読みでは「こうらい」)を由来とした英語なので、"South Korea"は、れっきとした英語であり、ちゃんぽんではありません。<br>歴史的には、半島全域のことを「朝鮮」と呼んでも「韓国」と呼んでも誤りではないのですが、政治的には、それぞれ「朝鮮民主主義人民共和国」と「大韓民国」のことだけを指しているようで紛らわしいため、両者を合わせたものだと強調する意味で「コリア」という表現を用いる場合が多いようです。

# いずし@胡桃日誌 (2002-12-17(火) 02:34)

義珍様。返信遅れまして申し訳ございません。コリアは英語なのですね。教えていただいてありがとうございます。

# 大吉 (2002-12-20(金) 10:37)

>やっぱり やくそくしてるんだったら かえすべき。かえさないのなら さいしょからやくそくなんて するべきじゃなかった。どういうじょうきょうであれ、くにとくにとのかんけいは やくそくの りこう に もとづく しんようから なりたっているわけで、やくそくが つうじないのであれば しんようされないのは あたりまえ。<br><br>12月19日。埒被害者の方々5人が記者会見され、10月24日、日本にとどまる決意を自分の意志で固めたことを述べられました。<br><br>旅行中の時にはニュースのフォローが出来ない物ですが、落ち着かれたら、記者会見でどういうお話をされたかをフォローしてみていただきたく存じます。そのうえで、なおやはり日本は五人を共和国へかえすべきだったかどうかを、現実に即して考えたいずしさんのご意見を聞かせていただけませんか。蓮池薫さんは北朝鮮に戻ったら日本には二度と帰ってこられないと思った(から、日本にとどまりたいと思った)とも述べられていますがそれについてはいかが考えられますか。

# 大吉 (2002-12-20(金) 11:30)

司馬遼太郎のエッセイや中国語の授業、産経新聞の記事などから知った話。<br><br>>くは「ちゅうごく」だとか「かんこく」だとか「ちょうせん」という ことばづかいが すきでなくて、げんちの ことばで よんだら いいんじゃないかな とおもっています。(中略)<br>>でも、ちゅうごくの ようじんは いまだに にほんよみ なのかな。<br><br>中国は広い国です。方言があって、それが互いに通じないほどであるのをご存じですか?同じ漢文を読んで発音が違うんです。だから中国人どおしでも通じない。<br>我々が知っている「中国語」は北京語ですね。あと、香港あたりで話されている広東語や、上海付近の上海語などが有名ですね。例えば香港映画で話されている言葉は、聞いてみたらわかるけど、ニュースなどで聞く北京語(これを、普通語、といいます。標準語というような意味です)とは全く響きが違います。<br><br>さて、そういうわけで、中国語とはさすが中華思想の国、そして、漢字の国。広大な領土を征服し、征服され、成り立ってきた国家ですから、事実上、方言を廃して漢字を同じ音に読むように統一するのは無理なこと(実際、香港あたりでは広東語じゃないと通じなかったりします)だったんです。今でこそ中国ですが、いくつもの国家に歴史上分かれていたこともありますよね。それも音の統一が不可能だった理由。<br><br>ただ、漢字は表意語ですから、同じ漢文を共有していれば、どういう音で読もうが漢字や漢文が示す意味は同じなわけです。<br>そこで、漢文(漢字)であることがまずありきとしました。そして、どういう音で読もうがそれはその地方地方の方言ってことになるわけで、そこに差別だの文化的無神経だのなんだのという意識はありません。もちろん、現実問題として、ニュースや政府発表などが国民に通じなければ困りますから、中国語の共通語として北京語を採用し、普通語を中国全土で教育したりしてますけどね。<br><br>そういうことで、日本人が日本語読みで中国人の人名を読んでも、「日本の方言」(中華思想的な意味っすよね)で読んでいるだけなのでそれで構わないのです。東夷の国ですから、東夷の音で読んでるわけです(笑)。地名もしかり。<br><br>そのかわり、日本人も中国に行くと、その日本人が漢字の名前であれば、中国語読みで名前を読まれますし自己紹介では中国語読みで言います。<br>逆に、日本にきた中国人は、日本人に向かって名乗るとき、自分の名前を日本語読みします。(うんと親しくなれば自分たちのことばによる読みを名乗ったり呼んだりすることがあるでしょうが、またそれは話は別)<br>これらもやっぱり漢字をその土地土地の現地の読み方で読めばよしという考えからです。実際そうしなければ方言の差が大きすぎる中国では、やっていけないからです。中国人の名前の日本語読み(と、日本人の名前の中国語読み)は、同じ漢字文化圏である故のことであり、そこには実に深い漢字文化圏の成り立ちの歴史があること。そして漢字文化のおもしろさや懐の深さが隠れていることよ、と私はこの話を聞いて思いました。<br><br>韓国人・朝鮮人の名前をハングル読みすることは、韓国・朝鮮との過去の歴史上のしこりがあったことがひとつ、中華である中国と違って日本と同じように周辺国であったことから、逆に中国発端の中華思想的漢字文化圏の習わしが韓国朝鮮と日本との間では通用しないのかなということがひとつ、それから、韓国が漢字の公的使用を廃しすべてハングル表記としたことも大きな理由でしょう。韓国・朝鮮人は中国や日本のような漢字教育をされていないので、名前を漢字で書けなかったり、漢文や漢字熟語の意味がわからなかったり読めなかったりするのですよ。


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