高遠さんのMUSICA FICTAへのコメント。
私は、「価値観の違う人間同士が、その違いについてぎゃあぎゃあ話し合うとケンカになってしまうと考えている」のではなく、そうすることによって少なからずケンカになることがあるという事実を言っているのです。そして、それは不幸なことだと思います。
「この人と自分の有している価値観は違う。その違いは尊重すべきだ」ということを念頭に置いた上での話し合いであれば、それは礼を失することはないと思うし、有意義なものだと思います。しかし、往々にして私のような人間はなぜか「尊重すべきだ」という原則を忘れがちであることもまた確かです。
「考え方や価値観は人それぞれで、口を出してはいけない」とのことですが「口を出してはいけない」などとは書いていません。価値観の違いをケンカの口実にしたくないだけです。衝突ばかりの人間関係なんて円滑なものだとは思いません。できたら無益な衝突は避けたいもの、もちろん有益な衝突というものももちろんあるでしょう。人間が生きていると、自然に他人と衝突するというのは事実ですから。その事実があるからといって、衝突をすることを賛美する必要はことさら無いのです。
「自分がこれまで築きあげた価値観を後生大事に抱え込んで、そこから一歩も動くまい、どんな批判も受けたくないという、言葉は悪いが自己防衛本能の強さ」という意見は的を射ているかも知れません。確かに、他人に攻撃されたくないという心性は私にはあります。しかし、一方で他人の価値観の違いを理解し、その価値観が優れていれば自分の価値観にできるような柔軟な感覚を持っていたいとも思っています。しかしながら、今の私がそう出来ているのかと訊かれれば、残念ながらそうでないことのほうが多いとしか言えませんが。
「考え方や価値観は人それぞれ」だけど、それに「口を出していけない」とまで話はすすめていません。人は他人の価値観に往々にして口を出してトラブルを起こす。そういうトラブルの火種になるような価値観の押し付けであれば、それはすべきで無いと思っているだけです。もちろん、トラブルの火種にならないような価値観への口出しまでを問題としてはいません。
「相手に自分の考えを伝える(押しつける?)必要がないのだから、自分の考えをしっかりまとめて言語化する必要もなくなってしまう」などということはありません。人間が他人と生きている以上、自分の行動の理由をちゃんと説明しないと(価値観を理解してもらわないと)衝突が起きることがままあります。そういう衝突を避けるために、自分の考えを言語化し伝えることは現実にあることだし、重要なことだと思います。言語は他人と衝突するためだけにあるのではないのです。
「口を出してはいけない」とは言っていませんが、お互い相手を疲れさせようとして、嫌な思いをさせようとすることは望みません。また、苦しい気持ちでいたいとも思いません。そして、そうすることによって本当に必ず「意思疎通」ができると思っているならば、言語のもつ能力を過大評価しているとしか思えません。それで「意思疎通」ができるのならば世の中戦争など起こりえません。
他人の考え方や価値観を理解し、尊重するということは、相手に一も二もなく賛成し、同意してやることではないと私も考えています。相手が私の反応を求めているときであれば、価値観の衝突も、それもまた求められているとかも知れません。しかし、相手が私の反応を求めていないときに、ことさら五月蝿く自分の価値観を衝突させる必要もないと思います。
「他人の価値観に口を出すこと」は必ずしも罪悪ではありません。「押し付けること」は時として罪悪になる思っています。人は価値観の違いを押し付けることによって、無益な衝突を引き起こすこともあると言っているのです。また、何度も書きますが、「一切口を出さない」とは言っていません。口を出すのは人間の自然な習性です。また、時と場合によって価値観を「口に出すこと」は、他人がそれを受容できる場合には、問題は無いと思っています。
面倒さを楽しみたい、そういう心性が私にもあることも確かです。それは、今回のような適切なルールのある上での議論であるならば楽しいですが、ことさら相手の感情を逆なでしたりするような議論は望んでいないということです。
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