価値観の違うことは悪ではないことは事実だ。しかし、価値観の違うことは悪ではないことを心底理解しているとは残念ながら私には言えない。私は、相手の価値観を受け入れることが出来ず、衝突してしまうということがしばしばある。その価値観の違いは、衝突すべきに値することなのだろうか、と後でよく思い返す。もちろん、衝突するに値すると思うときもある。しかし、一方で、衝突すべきに値しなかったと後悔することもしばしばある。日常で出会うちょっとした価値観の違いというただそれだけなのに、時としてはそう思えない重大なことだと思ってしまうことがあるのは、私にはよくあることだ。
そうやって自分の行動に後悔したり、些細なことに拘ったりする私のような人間は、相手の価値観の違いを「許す」ことを心がけたほうが良いと思っている。そうしたほうが、人間関係はうまくいくと思っているし、あのように後悔することもないと思うからだ。自分と異なる価値観を否定せず、相手に己の価値観を押しつけることもない寛大な人間であろうという意図の元にそう思っている。これは、純粋に私の体験としてそう言えるという事実でもあるし、私が目指したい目標だ。しかし、私は寛大な人間を目指しているものの、残念ながら事実そうなってはいないし、完全にそうなることは不可能だと思う。
もちろん、相手との価値観の違いに踏み込んでぎゃあぎゃあ言葉を交わす中で得られるものも多いということは否定しない。しかし、それは人間の自然な心性としてそうなるのであって、必ずしもそうすべきだとは言えないだろう。また、人の価値観に土足で踏み込むことが必ずしも良いことであるとは限らないだろう。そこにルールは無いのだろうか。一定のルールが無ければ、価値観の違いを精緻に議論することは難しい。僕らにとって日常はバトルフィールドなのだろうか。そうでないと願うことはおかしいことなのだろうか。私は、ゲームをすることは望んでも、殺し合いは望まない。お互い共生を望んでいるはずだ。
また、「許す」とは「聴す」とも書く。要するに相手の言うことに聞き耳を持ちましょうということだ。言うまでも無く、その作業というのは言語を通じて初めて成り立つものだ。それは、価値観の多様性を認識するために必要なことだと思う。「許す」の意味は国語辞典を引くと、「願い・申し出などをききいれて、願いどおりにさせる。認める。許可する」、「ある行為を、さしつかえないと認める」、「相手のはたらきかけに対し、思いどおりにさせる」、「すぐれた存在であると認める」とのことだ。
辞書的な意味は置いといて、ここらの観点の違いは、概念(今回の場合は「許す」)と自己の相対性の問題で、それこそ価値観の根本的な違いなのかも知れない。私は、「許す」ということを「高みにたつ」なんて思ってないし、相手に「許される」ことを嫌だとは思わない。一方で、「許す」という言葉に敏感で、ネガティブな感情しか持たない人もいるだろう。
一方で、価値観の押し付けに敏感になっている私は、私の価値観を侵害されたくないと、ある意味被害妄想じみているかも知れない。あるいは、人に価値観を押し付けがちな性向を持っているのかも知れない。そういった私の性向と私の価値観は反省に値する。もしかしたら、不幸にも価値観を押し付けられて育ってきたので嫌気がさしたのかも知れないし、人に価値観を押し付けて手酷く反撃をくらったという過去の体験が価値観の押し付けを嫌わせているのかも知れない。そういう意味では、価値観を押し付けることを悪とせず、そういう行動を自由にとることが出来る人は健全であると思わないでもないし、それを良しとしない私はある意味他人を「許す」ことが文字通り出来ていないのかも知れない。そこも反省に値するだろう。
と、高遠さんのMUSICA FICTAを見て思いました。先日の日記はゆきさんの日記を読んだだけでなく、高遠さんの日記も読んでから書いたのですが、その件を書かなかったことはアンフェアであったかなと思います。その意味では反省しています。
ヤフオクで落札したレシピエの紅茶が届く。賞味期限が切れてないか心配だけれどもとりあえず嬉しい。台湾や中国やアフリカのお茶なんかが入っている。早速飲みたいが、すべて袋入りなのでどう保存しようか考え中。
そういえば、アリーmyラブの再放送をしているのをすっかり忘れてた。ほとんど見逃してしまう。そして、なんだか今晩は眠れない。アサヒの本生を一缶飲んだがだめで、麒麟の淡麗のスタイニーを飲んだがやはり眠れず、こうして日記を書いている。まともな生活をしなければ。そういえば関心空間のアカウントを忘れてしまった。ドクター・クインの話とかスター・トレック・ヴォイジャの話とか反応したかったのだけど。そういえば、ヴォイジャーは関西では終わってしまったね。なんとなくあっけない終わり方で納得はいかなかったけれども。サン・テレビで放送されているDS9に期待。
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>相手の価値観の違いを「許す」
ここって、なんだか誤解されやすい表現では?
例えば私のような変わり者ですと、上段から一方的に「許可を与える」といわれているような気分になります。断定的というか。
映画「17歳のカルテ」(思春期病棟の少女たち、草思社)で、「合わないということでお互い合意しなくちゃ」といった表現がありましたが、そういうのよりも抵抗感があります。