2004-04-07(水) 首相の靖国参拝の違憲認定 [長年日記]

[時事]首相の靖国参拝の違憲認定

朝日新聞で知ったのだが、それでは一面トップ記事と天声人語をはじめ、他五面に関連記事と判決要旨が記述されていたことから、朝日新聞はこのことを重大なことであると捉えていると思ったし、僕もこの判決は重大な判決だと感じた。

そのことを人に話したら、そもそも朝日新聞が左翼思想に国民を教育しようとして、その影響を被った人間が判事になると云う時代になったが故にこのような判決が出た。また、朝日新聞がこのようなことを紙面の多くを使うこと自体が偏向した報道が行われている事実であり、そのような偏向した価値観にとらわれる人(僕も含めて)が多い世の中になったと語った。

朝日新聞の記事が偏向しているとはよく訊く。よく朝日新聞は叩かれる。中国や韓国、北朝鮮の手先のような感じで云われていることもあったように思う。まあ、僕は他の新聞をそんなに熱心に読んだことが無いし、記事の比較なんてしたことがないので、僕のメディアリテラシーはお粗末なものなのだと思うのだが。

この判決の争点となる大元の基準と云うのは憲法で云う「政教分離」と云う概念だ。その人が云うところによると「政教分離」と云うのはもともとアメリカで政治と特定の「教会」との結びつきを無くすためのもので、日本で解釈されているような政治と「宗教」を分離させるものでは無く、そもそも日本国憲法の「政教分離」自体がお仕着せなのであって、「政教分離」を唱える人はその憲法の「政教分離」と云う概念自体に思考停止しているのだと云われた。

確かに、僕は日本国憲法を恒久的なものだと解釈しているきらいが無いわけでは無いので、思考停止しているのは確かだと思う。

僕が問題としてきたのは何だろうと考えた。それは必ずしも「政教分離」と云う金科玉条では無いのかも知れない。

日本政府が作り上げた国家神道という概念は第二次世界大戦において、国内外の多くの民族に対し取り返しのつかない大きな悲劇を起こしたと思う。靖国神社参拝が中国共産党政府や韓国政府が日本に抗議されることも僕は国益(の解釈が問題だが)を大きく損なうと思うが、それは別の話として、個人の感情の話で考えたい。

靖国神社には第二次世界大戦関連で無くなった軍人(軍属もかな?)が英霊として祀られている。つまり国の仕事(公務?)で殉職した人が神道の社に祀られている(民間人の戦死者は祀られていないらしい)と云うことだ。その際の国の仕事は戦争で、敵国の兵士を殺すこと。民間人もどれだけの数かは知らないが殺しただろう。それは国を守るためと云う個々の兵士の崇高な意志とは別に、国が行った侵略戦争であると云う側面もまたある。戦争は英米の策略で必然的に起こさざるを得なかったと云う考え方もあるし、戦争とはそもそも人を殺すことを問題とされない(倫理的・道義的にも)と云う解釈もあろう。しかしながら、今の日本は戦時下では無いので、残る事実は戦争で多くの人を殺しに行かせ、そして人を殺し、あるいは殺されたと云う明白なことだけだろう。

僕の祖父の世代は戦争に行っていた世代だ。父方の祖父は国内で割とのうのうと兵役を終えたが、母方の祖父は朝鮮半島まで出兵して戦後引き上げてきたと云う経験を持つ。その祖父は早く亡くなってしまったため、戦争体験を聞くことは出来なかった。母方の祖母からは戦時中の話は殆ど聞くことはないが、一緒にニュースを眺めている際に戦争や紛争の話題が出ると「戦争はあかんなあ」「怖いわ」といつも呟く。幸い僕の知る限りでは戦争で亡くなった身近な方を知らないが、墓地に行くと戦没者の先の尖った墓石をたくさん見るとことによるとこんな小さな村でも多くの人が亡くなったのだなと思う。不幸なことだ。亡くなった人の親族の中にはやはり首相の靖国神社参拝に対する抵抗感を感じる人は少なからずいるのだろうと想像できる。

日本人である僕は「不幸なことだ」と悠長なことを云えるが、朝鮮や中国での太平洋戦争あたりの教育が非常に反日的なものであると云うことを差し引いても、祖父・祖母が兵隊として殺されたり、あるいは街や村で殺されたりと云う話を訊けば、日本の国を憎く思うのは当然だろう。反対の立場だったら僕は相手の国を嫌悪するだろう。

それは日本が敗戦国だからそういうことになって戦勝国なら何も云われないので不公平だと云う話もある。僕はその考え方には反対する。戦勝国であるアメリカは日本各地で激しい空爆を行い、広島・長崎、あるいは沖縄の上陸戦で多くの民間人を殺したと云うことについて、日本はもっとアピールしても良いのではないかと思う。しかし、そう云う国家レベルの話はやはり置いておく。

従って、多くの日本に住んでいた民間人も殺されており、その孫子の世代ではやはりアメリカを許し難い感情もあるのだろう。そういう鬱屈が最近の保守化に繋がっていると云うのは暴論か。

しかし、個人レベルの話になれば、民族感情を推し量るのは用意だと思うのだが。

そして、靖国神社には日本の兵隊が祀られている。そして、日本の首相が今回の判決ではほぼ公務と云っても良いかたちで参拝する。それによって、国内外の多くの人々が様々な感じで辛い思いをしたり憎い思いをしたりする。そう云うことが容易に予測できるなかで何故胸を張って行えるのか解らない。そこには何らかの想像力や感情が欠落しているがゆえなのか、あるいは打算があっての行為であるとしか考えられない。きっと首相の靖国神社参拝によって心安らぐ人もたくさん居るのであろうことも想像がつくが、首相はそれらの人々を利用しているように思えてならないのだ。

「政教分離」と云う話に拘りすぎたのかも知れない。本当に「政教分離」が達成できたら日本は最も成功した社会主義国という名をもっと上げることになるだろうとも云われたし、宗教は文化に大きな影響を及ぼしていて、学校が既存の文化を教えるならば必然的に宗教がらみのことを教えねばならず、それを教えられない学校をつくる社会は非常に味気ないものとなるだろうとも云われた。確かにある文化の源流を辿ればある宗教に結びつくことは多いだろう。

僕が小学校の頃、急に学校で「クリスマス会」が無くなった。それはそれで当時は残念なことであったが、今考えると「クリスマス会」を催すことで親の信仰の自由が侵害された(と云うことが即子どもの信仰の自由に関わるかは解らないが)と云う思いが事実としてあったのならば、無くなって妥当なのだろうとは思ったりする。修学旅行で神社仏閣をまわるのはどうなると云われたが、それも微妙。でも、それは「政治」と「宗教」の問題ではなくて「教育」と「宗教」の問題であって、ちょっと文脈が違う気がした。もちろん「政治」が「教育」の形を作っているのは確かではあるが。

僕自身は首相の靖国参拝の違憲認定を支持する。そして、早く、無宗教的な戦没者追悼の施設を作って、他の国に気兼ねすることなく内閣総理大臣以下が公務で追悼儀式を行える日を望んでいる。

過去の日記「在日韓国人と歴史教育」、「在日コリアン問題」、「在日コリアン問題その後」等を見て頂ければ、僕が何故この靖国神社参拝を問題視しているかということの動機の一部を知って貰えるかも知れません。

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